母国語で話しているのに、君の心にはかすりもしないときがある。

「りなさんは記憶を携帯のメモリーに移すタイプですか?人間の短期記憶の構造上、今を生きている人はそっちのタイプらしいですよ。」

「へぇぇぇ、そうなんですね。」

私すぐ記憶失くしちゃうんですよねと言ったら、彼はそんな言葉で全肯定してくれた。

褒めるの上手い人って、いるんだよなぁ。

こういう人が海原を超えていくんだろう。

 

とりあえず、自分は”今”を生きるのが苦手だと思っていたけど、そんなことを言われてしまったからには嬉しくなるしかない。

 

未来に向けた記憶をワーキングメモリというらしい。

嬉しいから、論文を検索してみた。

「近未来を予測しながら現在を生きるダイナミックな意識」?!かっこいいかよ。

その論文の筆者は「ワーキングメモリの容量制約がある理由を推定すると、それはおそらく心に志向性をもたせ、自己の存在の限定性に自らが気づくためなのかもしれない。容量制約によって不断の選択や意思決定が要請されるが、これが新たな環境への創造的適応、創発的な問題解決や新たな工夫を生みだすゆりかごの役割を担っており、これまでの人類の進化や文明の発展の秘密がそこにあるのではないかと考えている。」と述べていた。

 

え、なんかロマンチック感出てる。

要約すると、容量制約が文明を生んだ話らしい。

確かに私も忘れっぽいからこそ、今の行動力の原動力になっていると思う節はあるな。

もっと自分の中の文明発展させよ。

 

 

 

下北沢を散策していたら雨が降ってきたので、「ジャズ喫茶マサコ」にて雨宿りを楽しむことにした。

「日本人同士で話していても、全然伝わってないときは往々にしてある」という話題で盛り上がった。

話題が盛り上がるときの基準は、会話をしている人間各々がその感情を体感したことがあるかどうかなのであろうか。私がすごく興奮する体験をしたことを一生懸命説明しても、相手の心にかすりもしないときがある。

反対に相手が同じような感情を持ったことがある場合、説明が下手くそでも互いに歩み寄れる。それは、今まで26年間生きてきた中で立てた仮説だ。

 

子どもの頃はそんなこと感じなかった。

みんなが同じようにセーラームーンを好きになったし、モーニング娘を好きになった。

同じ学校で同じ先生から同じ内容の授業を受け、休憩時間はエンタの神様の話や今月発売の『なかよし』の感想を言い合う。

クラスの5分の4の女子はみんなミニバスに所属していた。私が学校の中庭のグラウンドに大きく落書きをした事実も、みんな知っていた。

 

学校でそれだけ時間を共にして、コミュニケーションをとっていたら、”みえている世界”って周りの友達とほとんど同じなのだ。

 

でも社会という世界に解き放たれた私たちは、1人で令和を生きている。

 

大人になればなるほど、いつの間にか驚くほどに、みんなそれぞれ別の世界を生きている。

だから成長すると、自然と付き合う人が変わるのだ。

そしてたまに別世界に生きている人と会話すると、「え、母国語で話してますよね?」とつっこみを入れたくなるくらい会話が通じないイベントが発生したりする。

 

だから、通じ合うって奇跡なのかもなぁなんて思ったりする。

海外に行って全然英語話せないときでも、海を超えて日本にいる友達と電話で会話するより、目の前にいる中国人と英語で話した方が伝わるなんてことがあったりした。

 

そういう事実を自分で発見するのって、興奮するんだよなぁ。

 

そしてその発見した自分の中の新事実を目の前にいる彼と共有できて、私のウキウキ度が1レベル上がった。”雨降ってるけど、下北沢の雨宿りいいやん”と思えるくらいには。

 

「雨、止んだみたいですよ!」

「あ、ほんとですね!行きましょうか。」

 

喫茶マサコさん、ごちそうさまでした。

ブレンドコーヒーいいお味でした。

 

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