母国語で話しているのに、君の心にはかすりもしないときがある。

「りなさんは記憶を携帯のメモリーに移すタイプですか?人間の短期記憶の構造上、今を生きている人はそっちのタイプらしいですよ。」

「へぇぇぇ、そうなんですね。」

私すぐ記憶失くしちゃうんですよねと言ったら、彼はそんな言葉で全肯定してくれた。

褒めるの上手い人って、いるんだよなぁ。

こういう人が海原を超えていくんだろう。

 

とりあえず、自分は”今”を生きるのが苦手だと思っていたけど、そんなことを言われてしまったからには嬉しくなるしかない。

 

未来に向けた記憶をワーキングメモリというらしい。

嬉しいから、論文を検索してみた。

「近未来を予測しながら現在を生きるダイナミックな意識」?!かっこいいかよ。

その論文の筆者は「ワーキングメモリの容量制約がある理由を推定すると、それはおそらく心に志向性をもたせ、自己の存在の限定性に自らが気づくためなのかもしれない。容量制約によって不断の選択や意思決定が要請されるが、これが新たな環境への創造的適応、創発的な問題解決や新たな工夫を生みだすゆりかごの役割を担っており、これまでの人類の進化や文明の発展の秘密がそこにあるのではないかと考えている。」と述べていた。

 

え、なんかロマンチック感出てる。

要約すると、容量制約が文明を生んだ話らしい。

確かに私も忘れっぽいからこそ、今の行動力の原動力になっていると思う節はあるな。

もっと自分の中の文明発展させよ。

 

 

 

下北沢を散策していたら雨が降ってきたので、「ジャズ喫茶マサコ」にて雨宿りを楽しむことにした。

「日本人同士で話していても、全然伝わってないときは往々にしてある」という話題で盛り上がった。

話題が盛り上がるときの基準は、会話をしている人間各々がその感情を体感したことがあるかどうかなのであろうか。私がすごく興奮する体験をしたことを一生懸命説明しても、相手の心にかすりもしないときがある。

反対に相手が同じような感情を持ったことがある場合、説明が下手くそでも互いに歩み寄れる。それは、今まで26年間生きてきた中で立てた仮説だ。

 

子どもの頃はそんなこと感じなかった。

みんなが同じようにセーラームーンを好きになったし、モーニング娘を好きになった。

同じ学校で同じ先生から同じ内容の授業を受け、休憩時間はエンタの神様の話や今月発売の『なかよし』の感想を言い合う。

クラスの5分の4の女子はみんなミニバスに所属していた。私が学校の中庭のグラウンドに大きく落書きをした事実も、みんな知っていた。

 

学校でそれだけ時間を共にして、コミュニケーションをとっていたら、”みえている世界”って周りの友達とほとんど同じなのだ。

 

でも社会という世界に解き放たれた私たちは、1人で令和を生きている。

 

大人になればなるほど、いつの間にか驚くほどに、みんなそれぞれ別の世界を生きている。

だから成長すると、自然と付き合う人が変わるのだ。

そしてたまに別世界に生きている人と会話すると、「え、母国語で話してますよね?」とつっこみを入れたくなるくらい会話が通じないイベントが発生したりする。

 

だから、通じ合うって奇跡なのかもなぁなんて思ったりする。

海外に行って全然英語話せないときでも、海を超えて日本にいる友達と電話で会話するより、目の前にいる中国人と英語で話した方が伝わるなんてことがあったりした。

 

そういう事実を自分で発見するのって、興奮するんだよなぁ。

 

そしてその発見した自分の中の新事実を目の前にいる彼と共有できて、私のウキウキ度が1レベル上がった。”雨降ってるけど、下北沢の雨宿りいいやん”と思えるくらいには。

 

「雨、止んだみたいですよ!」

「あ、ほんとですね!行きましょうか。」

 

喫茶マサコさん、ごちそうさまでした。

ブレンドコーヒーいいお味でした。

 

自分というエンタメを、いかに面白くさせるかについて真剣に考える回

わかりきっているのに、悔しくて涙が出てきた午前0時。

 

「前のシェアハウスには、自分の夢に向かってずっと頑張ってきた人たちがたくさんいたんだよね。目標に向かって頑張って大きい貿易会社に入ったり、絵が好きで今はインスタで絵を売っているけど、最近は美術の学校に通い出した人もいる。そんな人たちといるとすごく刺激を受けるんだ。そして自分も頑張らないと追いつけなくなる。差が離れすぎちゃうと、それはもう友達じゃいられなくなるんだよ。足枷みたいになりたくない。」と、同じシェアハウスに住んでいる19歳の大学生が私に話した。

”前のシェアハウスの人たち”というは、25歳の私よりも年下の子ばかりである。

 

 

知らなかったけど、どうやら私の中にもプライドというものがあったらしい。

 

そしてそれが割れたらしい。

 

 

人はひと、私は自分だ。

 

でも、目の前でそんなことを話されたから「大きい夢なんて持っていないし、目標に向かって努力できるタイプではないし、つまんない25歳」と言われているようだった。

 

目の前の現実を全力で生きれていたら、そういう話を聞いても何も傷つかなかっただろう。

 

私は自分をまだ認められないでいるんだ。

自分をつまんない25歳だと思っているから、落ち込んだのだ。

その現実を突きつけられた。

 

大きい夢なんてなくたって、今はどんどんやりたいことが溢れてきているし、明確になってきている。

目標に向かってコツコツと努力できないタイプだけど、試行錯誤しながら日々自分にできることはしているの。

 

でも私が思う「自分」にはまだなりきれていなくて、いや、その過程を楽しむのも大事だとは思っているのだけど、うん。

 

やっぱりどうやったって若い頃から夢があって、それに向かって頑張ってきた人には年下だって叶わない。

過去は変えられないのだ。

 

だから”その過去を、どうやって面白く魅せるか”で闘うしかない。

 

「良くも悪くも平凡で何の個性もない私の過去」を、どうやって料理するかを考えるのだ私!

   

 

かといって答えなんて見つかってないし、今の時点で見つかってその答えに固執するのも違うと思うし、そもそも答えなんてないし。

 

「りなは何がしたい?」

とその真っすぐな19歳に言われて、一言では言えなかった。

 

 

でも少なくとも私が生きていたいのは、大好きな人たちとお酒でも飲みながら、今何に興味があって、これから何をしたいのだとか、そういうことをわちゃわちゃ話して幸せを感じられる未来だ。

 

幸い、もうその”未来”は現在進行形で叶っている。

 

もっともっと大きい自分になってその未来の幅を広げていくのが、私の今の望みである。

 

 

その”未来の幅”が、エンタメを面白くさせるキーなのだ。

 

 

そうなったときに、私はやっぱり自分をちゃんとエンタメ化したいと考えた。

 

自分が1番ワクワクするストーリーを創っていきたい。

そして私自身に魅せつけてやりたい。

 

 

もうすでに何回か軽く死んでるし、何したっていい。

 

私は「何したっていい」の難しさをぐさぐさ感じてきた身であるのだけど、ここ最近思うのは、「何したっていい」の幅は行動することでしか広がっていかないということ。

そして自分1人では広げられないということ。

 

夢を持っている人、好きなことを仕事にしている人、好きなことを仕事にしていないけど趣味をとことん楽しんでいる人、私の知らない世界をたくさん知っている人、自分にはないものを持っている人…そういう大好きな人たちが周りに増えれば増えるほど、私の周りには大好きな人たちの”大好き”が増えるわけで。

そんな環境の中で私の想像できる未来が大きくなっていっているのは、確かだ。

 

幸せでいる覚悟はすでにあるのだけど、それだけでいいのだけど、人生まだまだ長いから自分の人生に飽きるのだけはごめんだとも思った。

 

私はずっと分かっていて敢えて決めないでいた覚悟がある。

 

 

「まだ知らない自分を超える覚悟」だ。

 

もう26歳にもなるし、自分がどういう人間かって大体分かってるつもりだった。

 

だけど長い人生、20代半ばの時点で自分が分かってしまうなんて、そんなつまらないストーリー構成を危うく創ってしまうところだったんだ。

 

未来が想像できてしまう時点で、もう人生のエンドロール流したいレベルである。

 

 

ちゃんと自分自身の頭で考えて、恥をかいて、失敗して、まだまだ軽く死のう。

もっと知らない自分に出会うために。

 

自分の心臓を、どれだけ速く刻ませるかだ。

 

つまらないをネタに、1杯どうですか。

本日、もやもやな感情が生まれた。

  

人は数えきれないくらいの感情を、垂れ流しにして生きている。

自分から生まれた名前のない感情たちが、私の日常をバラエティ豊かにしてくれている。

 

でも私は、「楽しい」や「ハッピー」のような感情ばかりを認め、自分の中の違和感は見て見ぬ振りをして大人になるまで生きてきた。

 

でも楽しいやハッピーはもちろん、もやもやした感情もまた、大切。

もやもやは、自分が進みたい方向のヒントを教えてくれる存在だからだ。

  

だから今日、その取り留めのない感情をキャッチできた自分は成長したのだなと思い、ちょっと嬉しかった。

  

というのは前置きです。

 

 

 

もやもやの感情が誕生したのは、初めて参加した読書会だった。

 

人に誘われて、どういう会なのか興味もあったので試しに参加してみようと思って。

読んだ本を紹介して、それについてみんなで色々話したりするという会だ。

 

参加している人たちは色んな方がいて、多分人生に対して真剣に考えて今を変えたいと思っている人たちな感じがした。

なんか意識が高かった。

 

みんなビジネス書を紹介していて、「こういう部分に感銘を受けたから自分はこれからこうしていきたい」のようなことを話していた。

 

 

 

んー、私は正直つまらなかった。

なんか、もやもやしていた。

 

 

ビジネスとか社会のことととか、働き方とか、そういうことにはちゃんと興味はある。

だけどビジネス書の紹介を聴いていて、その内容を自分の言葉に置き換えて書いてあることをそのまま話しているだけのように感じてしまった。もやもや

 

  

そんなもやもやが生まれた理由を考えてみた結果、私が期待していたのは「その先」だったということが判明した。

 

現在のこの世の中に生きている大人はどういう本を読んで、どういうことを感じて、”どういう意見を持つのだろう”という部分に興味があった。

 

であるのに、その本がどういう本なのかはなんとなく分かっても、紹介している人がどういう価値観を持っていてどういう考え方をするのかということが私にはわからなかった。

そしてそれを聴いた他の人たちに対して意見をして、みんなで考えてそこに生まれる”新しい何か”を私は楽しみにしていたんだなぁと振り返って気付いた。

 

あくまで私の興味についての話であるから、その読書会や参加している人たちを否定しているわけではない。

 

 

小説だったら人によって感じ方や捉え方が違うから、私が期待しているような読書会になるハードルはきっともっと低いと思う。

物語って感情が動きやすいものであるから、人それぞれで全然違う部分がグッときたり、同じ部分でも響いた理由が違ったりする。

だから、読書会であーだこーだ言うの楽しそうだなと思って。

 

 

でも参加者の人たちが紹介していた本は、ビジネス書だ。

ビジネス書は小説と違って「情報」が書かれているから、どこの部分が刺さったかというのは人それぞれ違うとは思うけど、その先の先まで発展させて会話をしないとただの情報交換になってしまう。

 

それではわざわざコミュニティで人と関わって行う価値というものが薄くなる。

それなら自分自身で実際にパラパラって本をめくってみたり、口コミを読んでみたりすればいいのではないか?というのが私の意見である。

 

私はどうせ人と集まって話をするのなら、そこでしか生まれない何かを発生させて持ち帰りたい。

 

 

人間性と人間性、価値観と価値観、人生と人生が同じ本を読んで何を感じて、どう考えるのかをみんなで伝え合い、発展させて生まれたものにこそAIにはできない価値が生まれるのだと思う。

それが私的に、ロマンチックなのだ。

 

でもこの読書会に参加して、将来読書会ではないけど違う分野でコミュニティもつくりたいと考えていたから、自分の価値観が浮き彫りになって自分自身をもっと知れた。

 

 

ちなみに私は益田ミリさんの「今日の人生」というエッセイ漫画を紹介したよ。

筆者の日常がシンプルな漫画で描かれていて、オチもないくらいのシンプルな作品だ。

シンプルに表現されている本当に何気ない、リアルな筆者の日常を読んでいると、普段自分の中ではスルーしてしまっているふとした瞬間に思うこととか、素直な私らしい感情だったり、そういう目に見えない大切なことを気付かせてもらえる作品である。

 

私以外の人がビジネス書を紹介している中きっと場違いだったんだろうなとは思うけど、個人的に思ったのは私のターンが1番色んな人の意見が飛び交っていたし、意見している人の人生が垣間見えたし、話がどんどん発展していってたと思うんだ。

その読書会のコミュニティに対する目的が私とは違うから、それが良いとかわるいとかそういう話ではなく、私の嗜好の観点からの話でね。

 

 

私は最近、自分の枠をもっと広げたい欲がたくさん出てきた。

 

なぜなら私の意見に人生が垣間見えたとして、その人生にもっと面白さが足りないと思うからだ。

という面白くない理由で、私は人生をもっとシャカシャカしたい。

 

もっと論理的なお花畑脳内になりたい。

もっともっと自分の世界観をワイドにしたいし、4D化したいし、文明開化したい。

それでいて、星見上げたい。

 

と思ったのでつまらないをネタに、1杯飲みませんか。

共感と面白いを同じ扱いにはせず、”理解されない面白い”で未来を創ってる話

 

未来を面白くしていくには、最初の思考の”その先”が大事だということに気付いた。

 

情報を受け取って、その知識をそのまま活用するのが一次思考だとしたら、その先の二次思考が大事だということである。

 

 

私はインスタグラムで発信するときに、誰かの言葉をそのまま引用するのが嫌なタイプである。

 

例えば名言をそのままコメントとして投稿するということをしたくない。

(敢えてそのまま引用する場合もあるよ)

 

完全に身内に向けた発信であるし、自己満であるから何でもいいのだけれど何故かそこにこだわりがある。

何故の部分を考えてみたら、私は「自分色を取り入れないと、発信する価値がない」と思っているからだという結果に気付いた。

 

考え方は人それぞれであるから、あくまで”自分の場合は”の話である。

 

 

私が思う「自分色」というのは、誰でも発信できる内容ではなく、25年間生きてきた今までの自分を総じて出てくる言葉である。

 

だからインスタグラムで写真を投稿する際には、「旅行に行ってきました。」「楽しかった。」だけでコメントしたくないというこだわりが私にはあるのだ。

 

上手い、下手は関係ない。

誰得かといえば、自分得だ。

 

大学生のときから無意識に、そんなこだわりでインスタグラムを投稿してきた。

ずーっと同じスタンスで投稿してきたから、それが私の好きなことの一部なのであろう。

 

 

最近はたまにコメントで私の「言葉が好きだ」「感性が好きだ」と言ってくれる人が増えた。

自分得を積み重ねると、こういうイベントが発生したりするから楽しい。

ありがとう。

 

 

私はずっと3日坊主で「続けられないこと」がコンプレックスであったけど、そんな身近にずっと続けていることがあった。

 

やりたいことって本当に無意識にやっていることだから、気付くのって難しいね。

逆に、気付いてしまうとこんな簡単なことだったのかと驚く。

 

だから「自分のやりたいことって何だろう」と考えると仕事や趣味で考えがちだけど、大体の人は逆なんだと思う。

「”私はインスタグラムで自分色を発信するのが好き”だから、なんの仕事をしよう?」なのだ。

 

義務教育で取り入れた方がいいと思う、この授業。

AIがもっと発展したら完璧な思考は必要なくなるからこそ、自分思考が絶対大事なのだ。

人間味のある思考が。

 

 

私がインスタグラムの言葉を考えるときの流れは、

①撮影した写真を気分でピックアップ

ちなみに写真を撮る時も、私は上手く撮ろうとするのではなく、「私がみている世界をどのように切り取ったら一番表現できるかな」というスタンスで撮影している。

 

②その写真を見て、自分の中で大喜利をする。

そこにいるだけで

めちゃくちゃ綺麗に咲いているのに、

鏡に映る桜は風が吹いたら濁っちゃう。

 

私の目にみえている世界も

よく風が吹く。

 

詩人か!と突っ込まれることもあるけど、例えばこんな感じ。

 

この流れで投稿している。

これは私が桜を観に行ったときの写真だけど、「綺麗だった。」だけではつまらないから私なりの感想を述べている。

 

そう、一次思考で「綺麗だな」と思ったことをそのままコメントにしたって私は面白くないのだ。

自分が投稿する意味がない。

私の存在意義を表現したい。(重め)

 

だから「綺麗だな」と思ったのは何故なのかとか、その桜にはどんなストーリーがあるのかとか、桜の視点からみた世界はどうなのか、みたいに色んな視点で自分の感想を考えてみる。

 

私はその過程を楽しんでいる。

 

 

「共感」と「面白い」を同じにしてはいけないという話もそれに似ている。

 

共感されるものは「いいね」されやすい。

あるあるものまねが最近とても流行っているのは、共感と面白さの相乗効果が大きいからではないかと思う。

 

しかし、共感に比べて面白いというのは種類がたくさんある。

funnyやinterestingがあるし、interestingに関しては人によって、あるいは考え方によって変わるのだ。

 

パリコレのファッションが素人にとって何がオシャレなのか理解できないように、面白さも世間に理解されないことがたくさんあるのだと思う。

 

ただ新しい時代を築いてきたのは、時代に理解されない人たちが”理解されない面白さ”をとことん突き詰めたから創られてきたのだ。

  

私はこれをしたい。

 

何か情報を得たとき、自分がどう感じてどう考えて、どう表現するのか。

一次思考の後に自分の世界で考えて、それを現実で表現する過程が、私はロマンチックだと思う。

  

自分にしかわからない面白さ、自分にしかみれない世界観がそこにはある。

 

その面白さや世界観が、他者の面白さや世界観とぶつかったときの化学反応はもっとロマンチックであるから、私はもっと「その先思考」を増やしていきたい。

 

私の”その先思考”とぶつかってくれる方、募集中です。

人生は回収しない伏線をつくったもんがちなんだと魅せられた話

「ありがとうございました。西野亮廣でした。」

えんとつ町のプぺルのエンドロールの最後に副音声の西野さんがそう言った。

 

その何でもない一言がかっこよすぎて泣いた。

心が泣いた。

 

その一言だけで、”西野亮廣”を魅せつけられたからだ。

 

言葉や声に、その人の生き方が表れるのだということを、体感させられてしまった。

 

 

と同時に、”悔しい”と思った。

 

こんな遊び方ができる大人になりたい!と、思ってしまった。

 

 

でも履き間違えてはいけないのは、「西野亮廣」を目指してはいけないということだ。

 

同じ人は誰一人いないのだから、同じやり方で生きたとしても必ず苦しくなる。

 

 

西野さん本人も話していたけど、誰かの背中を追っても、その人を超すことはできない。

どうしたって、私みたいな人は人と比べてしまうしね。

 

だから私は「自分を生きる」ということを、とことん追求することが1番幸せへの近道だという結論に至っている。

 

 

感動して涙が出てきたのは、忘れていた大事な何かに気付かされたからだ。

そんな大人が周りの席にもたくさんいた。

そんなシンプルな生き方のはずなのにできなくなっている大人だから、心を揺さぶられてしまったのだ。

心を揺さぶってほしい人は、観に行くべき!

 

 

 

自分を生きるためには、色んな人や経験と出会って、自分がワクワクすることだったり好きなことを情報収集する必要がある。

 

私は大学生くらいまでずっと、やれと言われたことだけをやればいいと思って生きてきた人間だから、好きなことをして生きていくという概念がそもそもなかった。

  

 

だから私みたいな人は特に情報収集が1番大事なんじゃないかって思う。

 

ちょっと自分の世界の外に勇気を出して踏み出してみると、びっくりする生き方の人ってたくさんいて面白い。

 

西野さんもすごすぎる人だけど、同じ人間だって考えたら、私もこんなかっこいい人になりたいなってシンプルに感銘を受ければいいのだ。

 

昔の自分は、「西野さんだからできたんだ。自分なんかできるはずない。」なんて最初から感銘を受けることさえ無意識に恐がっていた。

だって自分がそんなすごい人を目指すなんて無謀なことで、苦しむことくらい最初から分かってしまうから。

 

 

 

でも25年間生きてきて思うのは、「この人みたいになりたい!」って感じるのなら自分はそうなれる素質があるということだ。

 

憧れの人になるのは無理だけど、「なぜその人になりたいと感じるのか」「その人のどういう部分に憧れているのか」を噛み砕いて考えてみる。

それをどんどん集めていくと、自分の憧れやワクワク、好きなことが集まって、オリジナルの「自分」ができていく。

 

と思ったら、私はすごくワクワクした。

 

 

そこに辛いこととか悲しいことも合わさってできていく自分だから、素敵じゃん。

愛おしいじゃん、と思ってます。

 

 

 

そしてえんとつ町のプペルは冒頭でも書いたように、2回目は副音声で観たのだけど、1回観ただけでは気付かなかったことを西野さんがたくさん喋ってくれている。笑

 

とりあえず伏線がすごくて。

 

 

 

「回収しない伏線をたくさん作っておくと、後から使えるのでよい。必要ないなら使わなければいい話。」ということを話していた。

 

 

「なるほど、それなら人生も伏線をつくったもん勝ちだな」と思った。

 

 

 

私は何かをずっと続けてきたという経験がない。

小学校のときはミニバスケット、エレクトーン、そろばん。

中学はソフトテニス部で、高校は3か月だけ書道部でその後は帰宅部。

大学はダンスサークル。

 

大学4年間看護を学んで、1年手術室看護師として働いた。

(ちなみに病棟は学校で学んだことの延長線上で応用であるのに対して手術室は全く違う世界なので、0から勉強することの方が多かった。)

 

その後エキストラやレストランでアルバイトをして、オーストラリアへ飛んだ。

英語が勉強したかったわけではないし、将来海外に関わる仕事がしたかったわけでもない。

ただの勢いとノリ。

 

帰国してからはベンチャー企業で構造計算のデータベース化の仕事をした。

構造計算は建築系のITの分野で、数学や物理を使ってエクセルで建物の安全性を確認するための入力するお仕事である。

ちなみに私は理数系ではないし、物理がめちゃくちゃ苦手だ。

でもベンチャー企業でOLをしてみたかったし、やりたいことも明確でなかったからとりあえずやってみようというノリで就職した。

 

 

こんな人生だからてんで経験が繋がっていない。

ステップアップ的なことがない。

 

でもその生き方が良かったのかわるかったのかは、今私が幸せであるということが示していると思うのだ。

 

 

私は今やりたいことやワクワクすること、好きなことが昔の自分とは全然変わっている。

全然繋がりのない経験をしてきたようで、今の私がずっと変化しているのなら、それはちゃんと繋がっているんだって思う。

 

自分が進化しているってことだから!

 

こんな私でもずっと変わらないのは、「幸せになりたい」と思っているということ。

  

 

その結果今が幸せであるのなら、繋がっていないように思える人生でも、ちゃんと繋がっているってことでしょ!

 

 

まだ回収してない伏線の方が多いけど、実際引き出しの多い大人というのは、回収しない伏線をたくさん持っている人だと思う。

個人的に引き出しの多い人は、めちゃめちゃ魅力があると思っている。

 

全然関係のないと思っていた伏線が繋がるときの瞬間は、ゾクゾクするので楽しい。

 

 

だから回収しないかもしれない伏線は、自分が好きなものややりたいことがあるだけ作っといた方がいいと思ったのだ。

 

 

 

 

自分がやってきたことは純粋な理由でなくても、必ずやろうと思った理由がある。

 

 

それも1つの自分だ。

 

 

看護師は真っ当な理由でなったわけではないし、なんなら看護学科に入る前から看護師になりたくなかった。

 

 

でも今は「予防医学」に興味がある。

自分でも驚くけど、意外なところで伏線を回収できたりする。

 

 

自分でも予想できない分、面白いよね。

 

だからこれからはやりたいことは何でもやってみることにする。

やり遂げなくてもいいから、まずはやってみるの!

 

 

そして自分の人生のエンドロールが終わる時に、色-んな伏線を思い返して「うふふ」ってにやけながら幕を閉じたいな。

恥をかいてみなきゃ、何も始まらないと気付いてしまったから

いつぶりだろうか、足が微かに震えている。

 

会社の上司に、1ヶ月休職したいことを伝えてきた。

前記事のストーリーの続きである。

 

結果は1ヶ月、お休みを頂くことができた。

休職したいことをを伝えるのって、思っているよりもすごく勇気が必要だ。

 

私が勤めている会社はどベンチャーであるから、かなり忙しい。かなり。

私が1人抜けただけでも、大きな負担が他の人たちにかかってしまう。

 

そんなことを考えてしまっていたから、私は結果的に精神を病んだ。

 

そして突然「大変申し訳ないのですが、仕事ができません・・・」と電話で伝えるという、1番迷惑の掛かる形で会社に行けなくなった。

 

友達に「真面目な人ほど、自分の限界まで追いつめて結局朝に会社に行けなくなってバックレたりするんだよ。一番良くない。」と言われて、「御もっともです・・」としか返せなかった。

 

 

上司には「なんで1人で抱え込んだんだ」と、この会社に勤めて初めて怒られた。

 

「あなたを心配して言っているのではないよ。いや、心配はしているけどね。俺はやっぱり経営者だからさ、会社を守らないといけない。みんなの給料を払っていかないといけないんだ。」と。

 

 

私は胸の痛みと共に、「会社」というものを学ばせてもらっている・・・と痛感した。

 

 

そして今日、休職させてもらいたいことを伝えた。

そしたら、また怒られた。

 

「それはあなた自身から出た言葉には思えない。他人の意見をあたかも自分の意見のように話す人は信用できない。あなたはまだ受け売りの言葉で話している。」と。

 

他者の意見を自分の意見にして話しているつもりはなかったけど、冷静になって考えてみると図星だった。

 

恥をかきたくない、良く思われたいという無意識が言葉の端々に出ていたのだろう。

 

自分自身でも気付かなかった自分の心理の裏を暴かれて、逆に恥をかいてしまった。

 

私はいつからかっこつけてしまう大人になっていたのだろう・・・

そんな自分がショックだった。

 

 

 

 

そういえば2年前にも、同じようなことで大人に怒られたことがあった。

 

 

ネットワークビジネスをしている人に「日本や海外の社会情勢が学べるセミナーがあるの。会員でなくてもお金を払えば参加できるよ。」と誘われたときに、私は参加しようとした。

”ネットワークビジネスは興味ないけど、社会のことは勉強したいから試しに行ってみようかな”と、とりあえずやってみよう精神の私がそんなことを考えた結果である。

 

そして「かくかくしかじかで、誘われたから明日行ってくる!」と何気なく大人に話したら激怒されて、私はトラウマになったという事件がある。

 

その”大人”というのは、当時の恋人であり、私の師匠のような存在の人だったからこそ私には尚更こたえた。

今でも私が悪いことをしたとまでは思っていないが、ネットワークビジネスのそんなに関係性がない人に上手いこと騙されそうになっていたのは事実である。

 

「自分の軸はないけど、何か頑張りたい。」と思っているような若者は、こういう口の上手い大人のカモになってしまうのだ。

 

 

私は24歳にもなって自分軸がないことがすごく恥ずかしかったし、情けなかった。

 

 

そんなことがあってからは何でも自分の頭で考えて、自分の意志で行動してきたつもりでいたのに、25歳の私はまた怒られてしまった。

 

 

なぜ怒られたのだろう。

 

なんとなくワカルけど、分かるようでわからない。

 

これはどういう伏線だろう。

 

 

・・・”もっと自分を生きろ”ということだろうか。

という仮説を立ててみた。

 

 

私は自分に嘘をつくのが嫌いだ。

でも大人になるにつれて頭が良くなってくると、自分自身で納得できる理由を探せてしまうようになった。

 

上司は私のその部分を、見透かしていたのかもしれない。

 

 

私はいつから恥をかかなくなっていたんだろう。

 

 

大学生くらいのときは「残念な女」キャラだったから、恥をかくことも比較的容易であった。

  

 

でも海外へ行って、文章を書き始めてから「文章を読んで勇気が出た」「励まされた」「かっこいい」と言ってくれる人が増えた。

すごく嬉しかったのだけど、今までバカにされていじられるのが当たり前だったから、なんか逆に恥ずかしかった。

 

 

「私は敢えて恥ずかしくて痛いことを叫んでいますよ!うへへ!」というスタンスでロマンチックを吐いていたので、それをそのまま肯定されてしまったものだから困惑したのだ。

 

 

でもそのうち肯定されるのにも慣れてきて、素直にありがとうと言えるようになった。

 

それは良いことなのだけど、いつしか”恥をかく”という大事なイベントを企画するのを忘れていた。

 

 

恥をかくということは、「個」の自分を表現するということだと私は思う。

 

自分以外の他者だったり、”普通”からズレているときに恥をかく。

逆に言えば、自分の個性を他者に向かって表現することだと考えてもいいのではないか。

 

 

だから私は、ロマンチッククリエイターとして考えてみた。

 

「どうやったら恥をかけるだろう。」

 

考える方向性が誤っているかもしれないが、恥をかいたら強制的に自分自身の「個」を自分に見せつけることができるのではないかと思うのだ。

 

それで自分軸がつくられないかもしれないけど、どうにかこうにかつくられていくかもしれない。

 

どうやったら自分軸で生きれるのかなんてわからないけど、とりあえず私は考えるより先に行動して、失敗しながら学んでいくやり方が合っている。

 

だからこれでいいのだ。

 

 

恥をかく方法はすぐに浮かんだ。

 

 

「YouTube」だ。

 

 

YouTubeはずっと避けていたものだ。

 

コミュ力はある方だけど、話すのは苦手。

説明するのが苦手だし、1人で話すのも苦手。

動画に自分だけ映っているのも嫌。笑

 

 

でも恥をかきたいと思ったらすぐに浮かんできちゃったからやってみようと思う。

このADHD気質が騒いでいる間に。

 

 

 

 

弱い自分にもらった産物をギュって抱きしめながら、また初めてのおつかいに出掛けてみるのもいい。

今は何もしたくない。

働きたくないし、やりたいことを探す気も起きない。

ごはんは美味しいものを食べたい。

 

 

だったら何もしなければいい。

働かなければいいし、やりたいことを探す必要もない。

ごはんも美味しいものを食べればいい。

 

私の今年の目標は「お気分屋さんになる」だ。

始めの一歩を踏み出そう。

 

 

仕事を辞めようか、お給料は減るけど仕事量を減らしてもらって働き続けながら傍らでやりたいことをしようか、今日は運命が決まる日だ。

(どっちにしろ以前の働き方とは変えてもらうつもりだ。)

 

これから会社の上の人と話をしてくる。

 

 

1週間猶予をもらって心を休ませてもらった。

 

幸い周りの人に支えられて、気分を病むことはなかった。

でも何もこの先のことを考えたくなかったから、考えてない。

 

毎日仕事に追われていた日常から1歩逸れただけで、ゆっくりと時間が流れる世界が目の前に広がっていた。

 

 

「自分は何がしたいのだろうか。」

何かしたいことがないと、つまらない人生になっていくような感覚に陥る。

  

自分の余命を決めたら、もうちょっとシンプルに考えられるようになるだろうか。

 

今やりたくないことを、排除できるだろうか。

 

  

私の中ではっきりしているのは、世間の幸せを自分の幸せと勘違いしたくないということ。

 

マイホームやマイカーはいらない。

偉い役職もいらない。

 

私の幸せは結局、大切な人たちと一緒にいることだなと思う。

 

 

何かをやり続けた結果何かを得るという経験はしたいけど、仕事が続かなくてすぐに辞めてしまってもいいよね。

思った通りにストーリーが進まないのが、人生だったりする。

 

辛くて号泣して味わうしょっぱさとか、小さい頃からなんとなく聴いていた音楽にまさかで救われたときの感動とかさ。

だれも結末を知らないからこそ味わえる辛さだし、そうやって自分自身で演出していくストーリーだから面白いのだ。

  

やりたくないことを我慢し続ける自分はもう卒業したのだから、自分の中にある今までで作り上げられた”常識”の部分に「お前は何でそんなに弱いんだ」って言われても聞こえない振りをすればいいね。

  

弱い自分万歳だ。

 

弱い自分で生きると決めて生まれてきたのだ。

弱い自分からもらった産物をギュって抱きしめながら、また初めてのおつかいに出掛けてみるのもいい。

 

 

正直、これから会社の人と話をしに行くのが恐い。

 

でもワクワクしたいな。

 

ワクワクしたいなら、ワクワクすればいっか。

 

 

本当は、それくらいシンプルでいいのだ。

 

なぜかできない理由を考えるのが得意で、しかも自分自身も気付かないくらい無意識に自分に対してネガティブな言葉を投げつけてしまっているらしい。

いじめはよくない。

 

でもいっそ小さく死んでしまうのは、いいかもしれない。

次の章を迎えるのにおいしい展開にしていくか否かは、私の演出にかかっているよ。

「適応障害、ADHDのグレーゾーンです」と診断されたロマンチッククリエイターの話

テトラポットに登っててっぺん先を睨んで、

宇宙に靴飛ばす気持ちってどんなかな。

 

家に帰るだけなのに、いつもなら一刻も早く帰ろうと早歩きするのに、

とぼとぼ歩きながらそんなことを思いながら新宿駅を歩く。

 

みんなどうやって生きてるんだろう。

 

みんなそんなことさえ思わないのかな、普通。

  

 

数日前、頭が重くて、仕事を進めないといけないのに思考することができなくなった。

 

風邪の症状もないのに、勇気を振り絞って会社の人に「病院に行かせてください。」って言った。

優しい声で「うん、行きなさい。」と言ってくれたので、適当に病院を検索して家を出た。

 

頭に網みたいな、最先端みたいな器具を取り付けられて脳波を調べてもらった。

 

そのあと心理カウンセラーの人と、話をした。

看護師をしていたけど勢いで海外へ行って、そのあとやりたかったOLの仕事をしてることとか、今の生活が回っていないこととか。

 

 

 

 

「適応障害ですね。抑うつ状態で、ADHDのグレーゾーンです。」とお医者さんが言った。

私に。

 

「あ〜そうなんですね。私ADHDのグレーゾーンなんですか。面白いですね。」

と言いながら、お医者さんの早口の説明を聞いた。

 

お医者さんも心理カウンセラーの人も優しかったけど、なんかビジネスチックな感じに思えてしまったので「治療は考えさせてください。」とだけ言って帰った。

 

これも東京かぁ。

 

 

ADHDの特性はあるとは思っていたけど、私もグレーゾーンなんだ。

 

 

心理カウンセラーの人は「いいですねぇ」って言ってくれたけど、「この人はADHDなんだろうな」と思って話聞いてたのかなぁと思ったら美人なお姉さんのこともちょっと恐くなってしまった。

 

真相は美人なお姉さんにしかわからないけど。

 

軽度ではあるものの、自分は「障害」というものを所持しているのかと思うと不思議な感覚だった。

 

「私は”普通”の人と違ったんだ。」

一瞬でそう思ってしまった自分が嫌になった。

差別なんてしているつもりは、1ミリもなかったのに。

 

 

勢いで行動できちゃうとこ、意外と好きだったんだけどなぁ。

私の長所が、「障害です」と言われた気がしてすごくショックだった。

 

 

 

家に帰って電話で会社の人に報告した。

「うんうんうん、そうか。まぁでも適応障害は精神科行ったら大体の人が診断されるからね。」

と言われて一瞬言葉が何も出てこなかった。

 

 

その後「無理しないで辛かったら言うんだよ。」と言われた。

辛いから勇気を振り絞って時間もらって病院に行ったし、勇気出して報告したけど、それ以外になんて言えばいいんだ??

と頭にはてなが浮かんだ。

 

もう早く電話を切って一人で泣きたかったから「大丈夫です。」と言って電話を終わらせた。

 

 

それまで我慢していた涙が溢れて止まらなかった。

 

冷静に考えられなくて、「死にたい」なんて言葉が頭に浮かんだ。

そんなことを思ってしまう自分は、自分にショックを受けた。

 

「死にたい」って検索したら自殺対策の電話相談が出てきた。

こんなレベルの私が電話していいものかなんて思いながらも、またどこからか勇気を引っ張ってきて、”いのちの電話”にかけてみた。

 

”ただいま回線が込み合っています。できるだけ初めての方に電話が繋がるようになっています。ただいま回線が込み合っ…プーップーップーッ”

電話が切れた。

 

私の心の糸も切れた。

 

 

「でも仕事しなきゃ。みんなに迷惑を掛けてしまう。」

号泣しながらとりあえず手を動かした。

心の糸が切れたって思ってるだけかな。

手は動かせるもんな。

簡単な作業なのにいつもの倍以上時間が掛かった。

 

 

でも私は恵まれている。

次の日仕事なのに、死にたくなってみた私の話を何時間も電話で聴いてくれる人がいた。

 

死にたくなってみたのに、幸せなのはどういう状況だろう。

 

私はどうやらまた、自分の人生にロマンチック創ってるらしい。

飽き生だけど、ロマンチックくらい生きてる間は創り続けたいな~

 

 

テトラポットないけど、宇宙に靴飛ばしてみようかな。

 

誰よりもネットワークビジネスに誘われるロマンチッククリエイターの話②

ちなみに、誰よりもネットワークビジネスに誘われるロマンチッククリエイターの話①を書いた時の心境はそれなりだった。

 

唯一語り合える仲間だと思っていた友達に、心の中で別れを告げた日の帰り道、泣いた。

 

彼氏とでも別れた気分だった。

 

 

相手がみている未来に自分がいなくなってしまったのなら、お互い分かれ道を進んでいくしかないでしょ?

 

自分自身でも気付いていないのだろうけど、会話の節々で私を見下しているのが伝わってきてどんどん悲しくなっていくのが自分でも分かった。

 

 

ネットワークビジネスの恐いところは、自分の所属しているコミュニティが最も正しいと信じ込んでしまうことだ。

 

「それは本当にあなた自身から出てる言葉なの?」と思うことがよくある。

 

 

人はお金や時間を投資した分だけ、もしくはそれ以上にその投資したものが素晴らしいことだと思い込む習性がある。

 

 

ネットワークビジネスなんかは特に、ある意味人を騙すようなことをすることになりかねない。

 

その人自身ももはや騙しているなんて思ってなくて、本当に勧誘した相手が幸せになれると思っている人も少なくないだろう。

 

 

人は物事を正当化することが大得意だ。

それも自分自身でも分からないくらい無意識に。

 

 

ネットワークビジネスは実際、ネットワークビジネスをやって幸せになった人もいるだろう。

 

「孤独だったけど仲間が増えた。」

「やりたいこともなく、なんとなく生きていたけど、ネットワークビジネスに出会って生き生きと生きれるようになった。」

 

 

そういう意味では、その人にとっては良い環境なのかもしれない。

しかしだからといってみんなが同じ環境で幸せになれるわけではない。

 

 

やっかいなのは、ネットワークビジネスをしている人たちはそのことを勘違いしている人が多いように思う。

 

 

「毎日同じことの繰り返しの日々ってつまらない。」

「汗水垂らして働くより、自由に暮らした方がいい。」

「会社に雇われて働いてても、お先真っ暗だ。」

 

 

果たしてそうなのだろうか。

 

 

色んな常識があって、色んな人がいて、色んな感情があって、色んな人生がある。

 

 

私の人生が本当に世界が面白くなったのは、そのことに気付いてからだった。

 

 

 

常識はどこまでも固定概念だし、固定概念があることに気付いたときからが、固定概念になる。

 

 

 

今の時代は夢とかやりたいこととかがないと逆に生きづらい世界になりつつあって、私もずっと夢中になれるものが欲しいと思っていた。

 

だからネットワークビジネスに勧誘されるのが得意だったのだろう。

 

人は何か信念や希望を持っていないと、生きれないんじゃないかって思う。

 

 

だから宗教ができたんだと思うし、そんな人の気持ちを利用して良くない宗教やネットワークビジネスも流行るのだろう。

 

最近だったらオンラインサロンも新しい信仰タイプかもしれない。

いい意味でね。

 

そんな世の中で何が大切なのだろうと考えると、自分をどれだけ信仰できるかなのかなと。

 

 

幸か不幸か、正解か間違いかなんて自分で決めればいいんだ。

 

 

本当に大事なことを、忘れないで生きたい。

誰よりもネットワークビジネスに誘われるロマンチッククリエイター(25)の話①

 

”自分がやりたいことを見つけたい”

 

 

「なにが私の幸せ?わからないまま終わる、そんなのはいやだ!」

 

アンパンマンのマーチを自分の人生のテーマソングにしてるくらい、そう思い続けて生きてきた。

 

 

原点は大学1年生のときに出会った「好きなことをして生きていく」という自己啓発王道の本だった。

 

今となっては自己啓発本なんて必要ないくらい自分軸ができたし、読みたいとも思わなくなったなぁ。

 

 

でも当時は新潟生まれ新潟育ちの何も知らない看護学生だった。

 

影響されやすい私は好きなことで生きている人の本を読んで、「そんな生き方ができる人がいるんだ~。すごいなー。」と思った。

と同時にそんな生き方ができるなんて夢みたいな話、自分には無縁だって脳内ですぐに変換された。

 

 

でも心は違ったんだよね。

 

「こんな生き方があるんだ!」って知って、初めて恋愛以外で心がときめいた。

 

まだ世の中を知らない19歳の田舎少女。

 

 

今の自分になれたきっかけだし、その本には感謝してる。

 

 

 

その本の1番最初のページに、「好きなことをやって生きている人に会って打ちのめされよう」って書いてあった。

だからそれから色んな本を読みまくったし、長期休みには東京に出掛けてマッチングアプリで医療系以外の仕事をしてる人に会いまくった。

 

そんなことしてたらいつの間にか「私も人生楽しめるのかもしれない」って思えるようになっていった。

 

 

「普通に就活したら1社も受からないんだろうな」と思っていたことも看護師になった理由の1つだし(看護師は根性でなんとかなるって思ってたからなれた。笑)、

「大人になったら大変で辛い仕事に行くだけの毎日だ」って当たり前のように思っていたし、

「週末イオンモールにショッピングに行くだけの人生かぁ」なんて何も疑わずに嘆いていたくらい救いようのないネガティブだった。

 

その頃の私に比べたら、相当な進歩である。

 

 

そんな感じでマッチングアプリで色んな人に出会っていった中の1人に、ネットワークビジネスの勧誘をしてきた大人がいた。

 

 

イケメンのコミュ力高い20代半ばくらいのお兄さんと、東京のオシャレなカフェで話した。

 

 

そのお兄さんは誰も理解してくれない私のワクワクに、共感してくれた。

 

田舎だし、看護学生だし、そんな話ができる仲間がいなかったから、そんな人と出会えたのがすごく嬉しかった。

 

 

しかもその人自身が自己啓発本のような人で、私の知らない世界をたくさん教えてくれた。

当時の私はめちゃめちゃワクワクしたし、「師匠が現れた!」と思った。

 

 

今となっては分かりやすい営業だったけど、そのお兄さんは上手かった。

しかも世間を知らない私は営業の手法だなんて1ミリも思わなかった。

 

 

だからおすすめしてくれた本を素直に全部買った。

(強要はされてないけど、師匠がおすすめの本だから読みたいと思ってすぐに本屋に行って一気に買ったのだ。)

 

・金持ち父さんと貧乏父さん

・ユダヤ人大富豪の教え1

・ユダヤ人大富豪の教え2

・ユダヤ人大富豪の教え3

 

このタイトルを見て分かる人はわかると思うけど、ネットワークビジネスでよく利用される一般書籍である。

 

お金のリテラシーを学べる本で、本自体はちゃんとしたものである。

 

ネットワークビジネスの人たちがなぜ利用するのかというと、これを読むと自分も労働賃金ではなく権利収入なるもので収入を得たいと思ってもらうのにもってこいということ。

 

簡単に言えば、自由なお金と時間、仲間を手に入れましょう!そのために権利収入を得ましょう!的な感じだ。

 

 

でも権利収入って不動産とか印税とかでないとできない稼ぎ方だから、基本的に何も知らない若者が権利収入をもらえるようになるのはとっても難しいのだ。

 

 ネットワークビジネスは「誰でも簡単に権利収入が得られる!」というのが売りで、広まっているものなのである。

 

 

ネットワークビジネスは何の知識もない人でも、入会費と会員費を払って会員になれる。

 

すごく簡単にいえば、会員になったら今度は自分がそのネットワークビジネスに誰かを勧誘すると、その紹介料とかもろもろでその入会した会員が会員費を払っている限り権利収入を得られる仕組みになっているのだ。

 

一見、他の方法で権利収入を得るよりも簡単に稼げるように見える。

実際物理的にはそうなのかもしれないけど、そんな単純なことでもない。

 

 

何の知識もない若者がお金払って会員になって、急に稼げるようになるわけがないのだ。

 

言いたいことはたくさんあるけれど、今は勧誘された話をしているからまた今度書くとしよう。

 

 

 

そんな感じで私は買った本を読んだり、そのネットワークビジネスで1番成功しているすごい人だよって言われてセミナーの動画を見せられたりした。

 

ちなみに、そのすごい人ってのは”○○薫さん”。

その名前を聞いて分かる人もいると思うけど、私が最初に勧誘を受けたのは「アムウェイ」だ。

 

のちに、思いもよらぬところで出会うことになるのだけどそれはまた今度の記事に書く!

 

 

 

ローマ法王に会いたいって言われて「予定が空いてたらいいよ」って言うレベルの人だよって説明された。笑

 

 

 

渋谷のど真ん中に家があるそのお兄さんのネットワークビジネス仲間のホームパーティーに連れて行ってもらったり、そのお兄さんが友達(その人も同じ仲間)と住んでるめちゃめちゃおしゃれな代々木のお家のゲストルームに泊まらせてもらったりもした。

 

お家はめちゃめちゃおしゃれなのだけど、調理道具、化粧水、シャンプー、サプリメント…

全てがあの”アムウェイ”製品だった。

 

当時は知らなかったけどね。

 

 

 

 

アムウェイのことを教えられた後にネットで調べて初めてネットワークビジネスの存在を知ったし、ネズミ講とかそういう話も知った。

 

 

そして「あんなに親切にしてくれたし、師匠に出会えたと思っていたのに、あれは全て勧誘のためだったのか…」って感じたなぁ。

 

汚れた心を知らない田舎少女は、そんな大人がいることにショックを受けた。

 

 

 

それが私の初めてのネットワークビジネスとの出会い。

というか、闘いの始まり。

 

 

大きな声で言っておきたいのは、ネットワークビジネスもネットワーク系のビジネススクールも私はやっていない。

怪しいこともグレーなこともやってないぞ!!

 

 

でもネットワークビジネス自体は合法だし、その人たちはネットワークビジネスを良いように話すプロである。

だから「違法じゃないよ」とか「ネットワークビジネスではないよ」っていう人も、信じてはいけないのである。

 

 

そんなこと言ったら私も怪しいよな。

 

 

私は真っ当にロマンチッククリエイターだ!!!!

 

怪しいと思われても、職業ロマンチッククリエイターでいたいから、それは貫き通すぞ!!!! 

  

 

ネットワークビジネスに関しては正直、「人に迷惑かけないのであれば、やりたい人はやればいいんじゃん?」程度に思っていたけど、その考えは訂正することにした。

 

長くなるから続きは次の記事で書くことにする。

 

 

私が勧誘された話を記録したことによって、ネットワークビジネス・スクールをしようか悩んでいる人、すでにしているけど悩んでいる人が1人でも救われたらなぁと思ったから、書く。

 

 

もう誰かが、大切な人を失わないために。