「ドンキ行かん?」から始まる、日曜日の夜

当たり前のように明日が来る毎日に、焦っていた。

 

「ドンキ行かん?」

日曜日の夕方、廊下でばったり会った彼が提案してきた。

 

「じゃあドンキまで、そこのコンビニでお酒買って1本飲みながら行きましょう!」

「なんでやねん。コンビニにも俺の買いたい緑茶はあるんよ。でもドンキの方がちょっと安くなるからドンキ行こうと思ってるのに、コンビニで買ったら意味ないやん。」

「日曜日は、無駄をする日じゃないですか!」

「確かにそうやな。」

 

思ったより簡単に、説得できてしまった。

 

追加でみほちゃんとしげくんを口説いて、みんなでドンキまで出かけることになった。

わーい、みんなでお出かけ。

 

もちろん、ちゃんとコンビニにもみんなを引き込む。

みんなも「じゃあ飲むか。」と言って、お酒を買った。

普段みんなそんなにお酒飲まない大人なのに、私のわがまま聞いてくれたことが嬉しくて、にまにました。

 

そんでもって私は、角ハイボールを買った。

昨日観たYouTubeで、手越が「体絞ってるから」といって飲んでたお酒が角ハイボールだったから。

 

「かんぱーい!」

コンビニの前で乾杯して、出発した。

いざ、ドンキへ。

 

「うわ、まず。やっぱまずかった。角ハイボール久しく飲んでなかったけど、まずい。」

「そりゃあ、そうだろ。」

みんなジュースみたいなお酒飲みやがって。

 

調子に乗って、強いお酒を選んでしまった。

みんなと飲めるのが嬉しかったから。

 

でもまずいし、度数強いし、歩いてるし、すぐ酔った。

じわじわって、普段は冷え性なのに体の循環が良くなってるのがわかって、気持ちよくて、もっとにまにました。

 

のろのろ歩いたから15分くらいでドンキに到着した。

みんなで好きなように生活品を買って、帰った。

 

そんな日曜日、おばあちゃんになってもしたいなーなんて、帰り道みんなの後ろを歩きながら思った。

 

その夜は、”みんなも、みんなの人生を生きてるんだよなー。”とか当たり前のことを思いながら、

いつもよりちょっとぐっすり寝れた。

 

月曜日が楽しみとまでは思わないけど、「明日からも頑張ろ。うふふ」くらいの気持ちで眠りについた日曜日の人生。

多動性、衝動性によって生成されたロマンチッククリエイターの見解

ADHDだからかもしれない。

書くことが、心地良いのは。

ベッドに入って2時間くらい眠りにつけないのは日常で、瞑想もできない。

鬱な気分になることも、結構ある。

そんなメンヘラな自分を、未だに完全に好きになれないでいるのも事実である。

 

 

最近気付いたことがある。

何故私は文章を書くんだろうって考えてみたときに、実は「心のデトックス」をしていたんだということ。

 

日常でよくモヤモヤを感じるとき、どうすればいいかって調べると瞑想って出てくるでしょ?

 

だからやってみるのだけど、私は本当に瞑想ができない。

無になれない。

 

とっても瞑想したいから本気で何度もトライするのだけど、気付かないうちに数分で違うことを考えている自分に気付く。

自分でもこわいくらいに。

 

だって無になるのって、つまらないんだもん。

楽しいこと考えたいじゃん。

 

だから文章は自分に合った、心のデトックスの手段なのである。

自分のペースで、視覚的に見えるように自分のモヤモヤを文章にすることによって、その思いが浄化される感覚。

 

 

普段の何気ない時間に、自分の思考を客観的に観察してみたのだけど、めちゃめちゃ色んなことを感じたり考えたりしていた。

意外としないよね、自分の絶えず垂れ流しにしている感情だったり、思考だったりを改めて認識するという行為って。

 

だから夜も眠れないんだと思う。

グレーテスト・ショーマンの「A Million Dreams」の歌詞にめちゃくちゃ共感するもん。

 

毎晩ベッドに入ると

鮮やかな色彩で頭の中がいっぱいになる

無数の夢で目がさめちゃうんだ
 

僕が描いた世界は実現すると思う

無数の夢は叶えるためにあるから

無数の夢は世界を創るためにあるから

 

って。笑

 

未来を想像してにやにやしながら眠る日もあるし、自分の中にある闇の部分が広がって苦しくなる日もある。

寝るのが上手い人って、よく考えたらベッドでのこの妄想の時間ってないんだなって今気付いた。

 

小学生くらいのときは、好きな人と仲良くなる妄想を毎日してたなー。

現在は1mmたりとも恋愛の妄想とかできなくなってしまったのだけど、それってどうなのだろう。なんて思ったり。

 

 

ADHDの症状として、実際に入眠困難、睡眠の中断等がある。

そして日中は眠気の症状が強く出る。

 

私はまさにこれだった。

 

小学生の頃は毎日ベッドに入ってから2、3時間は眠れなかった。

 

大学の授業なんて、はりきっていつも1番前に座って真剣に聴いているのに、いつの間にか眠っている。

授業が終わって目覚めると、あーまた眠ってしまった…って嘆いてた。

先生からしたら、1番前に座っておいて堂々と寝る私のメンタルが理解できなかったかもしれない。

 

 

でも大人になってADHDグレーゾーンの診断をされて、改めて症状を調べたら殆どのことに当てはまった。

 

私はすぐ大事なことを忘れるから、何かやらなければいけないことができたらすぐにアラームを設定する。

これって小学生の頃保健委員会の当番の仕事を忘れて、クラスの男子に「お前、悪い子じゃん」みたいに言われたのがすごくショックだったトラウマがきっかけだと思う。(その台詞、改めて文字にするとなんか、あれだな…)

 

自分の携帯を持ってからは、アラームのメモに内容を書いて、思い出さなきゃいけない時間にアラームを設定して対策をするのが当たり前になった。

だから今でも夕方とかにアラーム鳴ったりするから、「え、なんでこの時間まで寝てるつもりだったの?」とかよく聞かれる。

 

精神科の先生は、上手く対策してきたんですねと言ってくれたのだけど、あーそういうことかと思った。

ADHDでなくても人間だから忘れることってあるけど、おめでたいことに、私は普通の人よりADHDの対策してるから大事なことを忘れないっていう長所ができた。

 

自分が人と違うことで自分を責めていた頃の自分に教えてあげたい。

 

お前それ、すごいもん持ってるじゃん!って。笑

 

人よりよく怒られるし、集中力がないから何かをやり遂げる能力も劣っていた。

そんなの人間社会のルールで言えば落ちこぼれなのだけど、大人になって思うのは、落ちこぼれは落ちこぼれなりの長所ができる。

そもそも「落ちこぼれ」なんて言葉は社会の中では使えるけど、地球的に言えば意味を成さない用語である。

 

仕事ができない人の気持ちが理解できるから、「なんでこんなこともできないの?」と正直思ってしまったとしても「ここで感情のまま伝えたって、それはかっこわるい上司と同じだ。」って踏みとどまれたことができたことがある。

 

よく怒られるから、怒られる度に悩んだし、でも悩んでるだけでは生きてなんていられないから、思考で前向きに考えられる能力も後天的に身に付けることができた。

それは最初からポジティブな人とは、また異なった長所だ。

ネガティブからのポジティブという”幅”を知っているのは、強いと思ってる。

 

人とは違う視点で物事を考えるきっかけが与えられているわけです。

それでいて、人とは違うことに気付けるようになる。強くね?

 

そもそも私のADHDに対する見解は、いわゆる”普通の人”よりも人間らしいのではないかってこと。

ちなみに忘れてはならないけど、私元看護師だからね。笑

一応、大学で精神疾患勉強してるの!

 

好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」

思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」

これらのADHDの特徴って、言い換えれば「自分の心に素直に生きてる」という長所を持っているということでしょ?

 

不注意さや物忘れも、あくまで社会の中で必要な能力であって、その能力が低いからといってその人自身の魅力は失われない。

 

むしろ私は自分の好きなことを素直にやっている人や、思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう人の方が好みだ。

長所とか短所とか、結局どの視点で、どの基準で決められてるのかって話。

 

いわゆる”できる系”の人だったら、こんなこと考えもしないわけである。

私はそんなできる系の人と真っ向勝負したっ勝ち目はごく僅かなわけで、戦略立てて挑むか、違う土俵で、違う視点で生きるのが性に合っていることも知っている。

 

そうやって色んな個性の人が、色んな出来事に揉まれながらも、最終的にその経験が自分の居場所を見つけることに繋がっていくのだと思うと世の中上手くできてるよなーと思う。

 

ADHDなんて、そもそも人間を統一するために不都合な能力を”病気”として捉えているだけの話だと、私は思っている。

 

だから、誇る。

あー、今夜のことは死ぬとき思い出すのかなってくらいの感情を刻む

好きな感覚の話をしよう。

 

「あ、今生きてる世界線はここだったんだ」って、自分の信じ込んでいた世界があったことに気付いた瞬間。

気付いたら、もう別の世界にいる。

 

フレンズの「NIGHT TOWN]を聴きながら、そんなことを思った。

タイトルが全部大文字なところもいい。

 

ポップな曲調なのに、「まだお互いのことを知らないけど、もっと知りたい。君はどう?」的な

もどかしささえを楽しむ男女の、”あの時間”を感じられる音楽だ。

 

 

感覚って、冷静に考えると自分だけしか知らない体験型アトラクションだ。

たとえ「世界に2人きりになった感覚」みたいに言われたとして、その感覚はわかる!ってなるけど、その人が感じた感覚と同じかどうかは死んでもわからない。

 

だから日常で自分の感覚に焦点を当ててみると、意外な自分の一面に出会えるかもしれない。

”あ、今完全にNIGHT TOWNの世界に入ってたな。”とか。

 

それって言い換えてみると、「自分の知らない自分に出会う=自分の知らない世界に出会う」なのだ。

 

このコロナ時代に、飛行機どころか1mmも動かずに冒険できるってことだぞ!!

すげぇ発見だ!!

 

 

話を戻すと、いつもの真面目な自分から少し離脱して

「シンプルに、好きなことは好きなだけすればいいじゃん!」

「仮に一文無しになったとしても、そこからまた私の冒険記が面白いことになるだけじゃん!」

ってなる感覚が、自分の中ですき。

 

過去とか未来とかどうでもいいから、今この瞬間に全てをかける!と思えるゾーンに入る感覚もすき。

 

ただ ただ、踊ってる夜は人生と感じる感覚がすき。

”あー、今夜のことは死ぬとき思い出すのかな”ってくらいの感情を刻むときの感覚もすき。

 

そういうのって、楽しいことも辛いことも切ないことも、良くもわるくも色んな経験を自分自身で体感しないと知ることができないのである。

こんなにAIとかが発展しているのにね。

 

 

だから、ホメオスタシスとは上手く付き合っていきたい。

ホメオスタシスさん、いつも本能的に私のことを守ってくれてありがとう。

でも可愛い子には旅をさせてほしい。

 

さあ 出かけよう ひときれのパン

ナイフ ランプ 鞄につめこんで。

自分が田舎に生まれた理由は、意外とロマンチックかもしれない話

「アメリカ文化」というものはないらしい。

地域によって違うし、地域の中でも個人によって違うからだ。

 

日本においてはどうだろう。

やっぱり真面目だけどシャイで、自信もないイメージがあるし実際海外と比べるとしたら日本人の気質ってそういう部分にあるだろう。

あと、人生を楽しんでいるように見える人も比較的少ないように思う。

 

あくまで私の立場での個人的な意見であるし、日本人を否定したいわけではない。

むしろ私は日本人が、普通の日本人よりは好きだと思う。

 

私がメルボルンで過ごしていた時、オーストラリアって移民の国だから、誰がオーストラリア人なのか分からないレベルで色んな人種の人たちが生活していた。

偏見が含まれている部分もあるのかもしれないけど、私が出会った人たちはやはり国ごとに人の性格だったり価値観だったり似ている部分があったのは確かだった。

 

 

友達になった中国人に疑問を抱いて、ふとこんなことを聞いたことがある。

「なんで君は、あんまり笑顔にならないの?中国人の人たちってみんなシリアスな表情してない?」って。

なんで中国人の友達に聞いたかというと、私のバイト先の中国人の人たちも全然私に笑ってくれなかったからだ。

 

これはあくまで私の友達の中国人の人が言っていたことなのだけど、中国の文化って親密な関係にならないとあまり笑顔を見せないらしい。

笑顔を見せないという表現は合っていないような気もするけど。

愛想がない感じ!

 

でも1度仲良くなるとすごく心を開くし、信頼性激つよなんだそう。

実際、最初は恐い表情しか見せてくれなかったその中国人の人たちも、関係性ができてくるに従って笑顔を見せてくれることが増えた。

結構、嬉しかった。

 

 

なんてこともあったし、私はラテン系の友達がたくさんいたのだけど、週末は毎回20人くらい友達を集めて、ビーチでBBQをして飲みながら踊り明かすことがよくあった。

 

ダンスが好きな人たちが集まっているのもあるだろうけど、やっぱり日本人とノリが違うなぁと感じた。

私はダンスが好きだからよく友達に踊ろ!っていうのだけど、なかなか日本人で踊ってくれる人っていなかったりする。

日常に踊る文化がないもんね。

 

 

何が言いたいのかというと、人間って環境に大きく左右されるんだなってこと。

 

例で挙げたのは国という環境だけれど、地域、家族、学校、貧富、気候…全ての環境においてそれが言える。

 

自分が好きな食べ物やファッション、やりたい仕事、好きな人…全部自分で選んでいるようで、実はほとんどが「”今までの自分が育った環境によってつくられた自分”に選ばされている」のではないかなって思う。

 

大学生の頃、新潟県民は背油ラーメンが大好きだけど、山形県民の友達らは「あっさりラーメン以外、ラーメンじゃない!」と言われて衝撃だった。

あっさりラーメンも美味しいけど、背油ラーメンがラーメンじゃないなんて、どう育ったらそんな嗜好になるんだ!!って。

 

日本の食べ物大好きマンだけど、海外の人の意見を聞くと「寿司美味しいよね!」とは言われるけど、自分が思っている以上に評価は低い。

やっぱりみんなそれぞれ、故郷の味が1番だという人ばかりだ。

 

大学のゼミで「人間は脳で食べている」というテーマについて研究したのだけど、まさにそれだと思ってる。

故郷の味、つまり慣れ親しんだ「思い出の味」が無敵なのだ。

 

 

ファッションも田舎にいた時だったら絶対しなかったようなファッションを東京で着ているし、自分が進路を考えるときに選択肢が看護師や公務員くらいしか頭になかった。

図書館にある「職業図鑑」的なものでしか、調べる方法が思いつかなかった。

 

「外の世界を知ろうとしなかった自分がわるいよ。」と言われるのだけど、”外の世界がある”だなんて知らなかったんだもん。

知っていたら「どうやって調べればわかるかな?」と考えられるけど、そもそもその存在を知ることがなければ調べようがないでしょ?

 

小さい頃からお母さんにずっと「看護師はいいよ」と洗脳のように言われて育ったことが、私が看護師になった理由において大きな割合を占めている。

ちなみに医療現場での医療ミスも、「ミスは、ミスした人のせいではなく、環境に問題がある」という考え方で改善策を考える。

経済学でも、そんな考え方あるよね。

 

 

上手くいかないことを、環境のせいにしたいわけではない。

その環境に生まれたからといって、後悔があるわけでもない。

全部を含めて今の自分があるわけだから。

 

今の大好きな人たちと出会えたのも、私が生まれた環境、育った環境、今までしてきた自分自身の選択、全てのおかげだ。

  

小さい頃の家庭環境は私にとって最悪だったけど、あの人生で1番辛かった小学生時代が、今の私の基盤となる価値観をつくっている。

 

自分の居場所があるだけで幸せだと思えるし、「明日を生きたくない」と思わなくていい日常にすごく感謝ができる。

こういうことを、綺麗事だと思う人にならずに済んだ。

  

今好きな人を「好きだ」と思えるのは、今まで生きてきた環境のおかげでもあるとさえ思う。

 

なんならそもそもこの環境で生まれたのって、その人と出逢うために、生まれてくる前の自分が仕組んだ環境なのかもしれないなんて思ったりもする。

「え、小さい頃から○○が好きなの?偶然だね、私も!!」ってなって運命感じてしまうのって、人間のロマンチックな性質ではないだろうか。

追記:セーラームーンは、前世で戦争によって幸せになれなかったセーラームーン(月のお姫 様)とタキシード仮面(地球の王子)があまりにも可哀想だと思い、セーラームーンのお母さんが2人を同じ時代の地球に転生させたのである。2人は偶然道端で会って、お互い初めて会ったのに、何故か知っているような感覚を覚えて惹かれ合っていくストーリーである。

 

このロマンチック、お分かりいただけただろうか。

東京に住んでいる全ての大人がかっこいいと思っていた、あの頃の話。

薄いカシオレが飲みたい。

カシオレが好きなわけではないのだけど、ふと飲みたくなる感情が湧いてくることはある。

99%牛乳のカルーアミルクも。

 

 

当時新しく大学生になった私は、サークルの新歓で何のお酒を飲めばいいか分からなかった。

先輩に聞いたら、とりあえずカクテルを飲めばいいらしい。

 

お酒を飲んだことがなかった私はみんなと同じカクテルを頼み、恐る恐る飲んだ。

ジュースと何が違うのか、分からなかった。

 

でも日本酒はくそみたいにまずかった。

もちろん罰ゲームでしか飲まなかった。

 

今思えばそれは当然のことで…

私たちがよく行っていた居酒屋の飲み放題は、90分1,280円だった。

でもあの薄いカシオレの味だとか、くそまずい罰ゲームの日本酒の味は、大人になってから飲んでみるとエモい飲み物に変身する。

 

私が通っていた大学は周辺に林や海しかなくて、バスで20分のところに最寄り駅があった。

だからうちの大学の学生は、みんな行く居酒屋は大体一緒だった。

 

雰囲気もお酒の味も良くはなかったけど、お酒が飲めればよかった。

みんなそうだった。

 

もう何を話していたかなんて覚えていないけど、サークルの中での推しは誰だとか、誰と誰が付き合ってて、どの人が童貞だとか、そんな類の話をしていたと思う。

 

サークル全体の飲み会は先輩みんなに乾杯をしに行って、酔いがいい感じになってきたら、自然とテーブルを移動して色んな人と話した。

 

”大学生ってこんな感じなんだ!”って、自分が「大学生」をしていることが楽しかった。

今も”OLってこんな感じなんだ!”って「OL」を楽しんでいるから、そこら辺は相変わらず変わっていない。

 

大学生のときは特別何かを成し遂げたわけではないけど、真面目に授業を受けて、空きコマに恋バナをして、実習へ行って、サークルもバイトもそれなりに過ごした。

すごく楽しかったし、すげぇ青春だった。

 

でも現在あの頃に戻りたいかといえば、戻りたいとは思わない。

今から同じことをしたとしても、あの時みたいなキラキラは感じないと思うし、そんなに楽しくないと思うから。

なのにあの頃の思い出はすごく胸がギューっとなるのだから、この感情の構造はわからない。

 

「人生で1回くらい合コンしてみたくね?」と言って開催した合コンで、まんまと好きな人ができちゃったあの頃。

看護学科で勉強しているのに、「あー、私が看護師なったら人生詰むな。」と思っていたあの頃。

でも、東京にはすごく憧れを抱いていて、東京に住んでいる全ての大人がかっこいいと思っていたあの頃。

故郷の外の世界を知らなかった、あの頃。

 

そんな自分が存在していた時代が、なんか大好きなんだよな。

 

現在は26歳になって、ある一定の世界を見たことがある大人になった。

東京にいる人はすごく面白い人もいれば、全然かっこいいと思えない大人がいることも知った。

上京して出会ってきた大人に、「物事の本質をみなさい」と言われて育った。

 

そして、大人になってからの方が、知らないことに出会う機会が増えた。

自分がみていた世界は、私自身が勝手に創り出している世界でしかないということを学んだからかもしれない。

 

あの頃私が創り出していた世界もわるくないし、なんなら中身のない昔の日常が創り出した第二の青春は天晴れだと思う。

 

とりあえず死ぬために生きている限り、どんな生き方をしようと天晴れな人生になると思ってる。

だから今日みたいな、特に何もない日常って特別だったりするのかもしれない。

 

今日は、昨日の自分よりももうちょっと、頑張ってみることにするか。

「結婚は、3回くらいしたいと思ってる。」

彼女は真顔で言った。

 

確かに「結婚は1人の人と永遠に」が1番幸せになれるだなんて勝手に思っていたけど、そうでない場合もあるんだろうな。

 

もちろん1人の人と同じ幸せを育むのって、すごく幸せだと思ってる。

 

ただ思ったのは、自分でも知らないうちに決めつけている常識がまだまだ沢山あるなってことだ。

 

厄介なのが、自分でもそれを今まで生きてきた環境で自然にすり込まれた常識なのだと気付いていないことだ。

 

知らないうちにすり込まれた常識で、自分の幸せを決めてしまっているのが恐い。

 

だから私は色んな人にあって、色んな生き方を知って、自分の幸せを選択していきたい。

 

田舎で生まれたけど、ずっと村から出なかったら、自分の幸せは「大学に行って、看護師になって、それなりに旅行をして、素敵な旦那さんに幸せにしてもらう」ことだったと思う。

大学に行くことも、田舎で暮らすことも、看護師として働くことも、旦那さんに幸せにしてもらうことも、全部幸せの選択肢だと思う。

 

ただ、私の幸せは違う選択だと大人になって知った。

世界をまるで知らなかったから。

 

今はすでに看護師を辞めて、どうなるか分からない未来を生きているのが心地いい。

 

変化のない日常って、結構メンタルにくることも学んだ。

 

かといって、狂ったみたいに仕事が好きではないことも学んだ。

 

私は他の誰でもないから、「この人がこれで幸せだから、私も同じことをすれば幸せになれる!」なんてことはない。

 

その幸せを試行錯誤して探すことを、生きると言うのかもしれないなんて思った。

 

何でもいいけど。

 

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。お酒は飲まなかった。

真っ暗な世界をみたことがあるから、明るい世界に”色”があることに感動する。

だから、落ち込んだ日常も嫌いじゃない。

 

何故か今日は、会社帰りの電車に揺られながら涙が溢れてきた。

鬱とか、そういう類の涙ではない感じはした。

女の子の日は、もう過ぎたんだけどな。

 

確かに心がなんとなく曇っているような気もするし、人間だから数えてみれば心がちょっとブルーになる出来事もいくつかある。

 

電車で泣いたことは何回もあるなー。

私って泣き虫なんだなー。

遠くにいる好きな人に会いに行って、夜行バスで帰るシーンでは何回泣いたんだろう。

 

なんて、さすがに家に帰るまで号泣しないように、今この瞬間から意識をそらした。

 

本当は外に走りに行きたかったけれど、この目に見えない悲しみに浸りたかった。

気分が落ち込んでいるときは、とことん浸るのもいい。

 

だから家に帰って気が済むまで泣いてから、Netflixでいつもはあまり観ない邦画のジャンルで今の自分に寄り添ってくれる作品を探した。

感動で泣いた。

 

友達に電話したけど、出なかった。

そういう日か。

 

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。

お酒は飲まなかった。

 

明日は、金曜日だ。

金曜日の夜だけでもいいから、踊っていられればいいな。

今日はUber eatsを頼もうとしたのだけど、お店もメニューも多すぎて、めんどくさくなった。

 

自由なのだから、何を頼んだっていいのに。

「何でも選んでいいよ!」って結構、難易度高かったりする。

 

でも結局何も選べないで終わるのって、1番つまらないよな。

 

なんて思いながら、自分の足でCoCo壱にカレーを買いに行った。

 

それはそれで、また1つの選択肢だったりもする。

 

何が大事なのかは、”自分の意志で選んだかどうか”だ。

 

人生の選択肢だって、きっと同じで。

 

大きな選択って吟味しがちになってしまうけど、結局えいって飛び込んじゃう勇気が1番大事なんだと思ってる。

私の人生においては。

計画性ゼロだから。(ADHDグレーゾーン診断済)

 

「自分の個性を創っていくために、何を頑張ろうか」という議題が自分の中にずっとある。

 

「鉄は熱いうちに打て」は常に念頭に置いてあるから最初の行動まではするのだけど、それに自分の若さを注ぎ込むのってすごく勇気がいるんだよね。

 

んー私にはこれ合わないなーと思って辞めたこといくつもあるけど、辞める決断をする度に恐かった。

 

やってみた分だけ”こっちの道ではない”ってことは分かるけど、また新しい道を探さないといけなくなる。

 

それって結構、きつい。

 

でもそのキツさって、意外と未来の自分にとっては大事だったりするんだよね。

 

悩んであーでもないし、こーでもないかなんて試行錯誤してできていく自分をどうにかこうにかして可愛がっていくのが自分の仕事だったりするんだろう。

 

そうやって私ができていく。

技術とか肩書きとかそういう部分ではなく、目に見えない、基準もルールもない範囲での、自分が。

 

悩みたいのなら悩めばいいし、現状を変えたいのなら変えればいい。

シンプルに。

 

ときめきたいのなら、タフなハート持たないといけないらしい。

 

逆説的に言えば、死ぬこと以外はかすり傷なんだろう。

だから、どんなときだって、踊ってられればいいんだ。

金曜日の夜だけでもいい。

人はみんな、「弱い」という強みを持っている件。

人間は弱い。

だから人を好きになれる。

 

社会人になるまで、とにかく夜が寂しかった。

田んぼに囲まれている家で、夜に音はなかった。

 

いや、厳密には夏に蛙が必死に鳴いていたし、秋はコオロギが全力で歌っていた。

なんでそんなに必死になれるんだよ。

 

「風物詩だね~」だなんて感じる心は、未だ持ち合わせていなかった。

 

私は暑くても寒くても、浮つくような気温でも、夜はいつも寂しかった。

 

だから毎日誰かと寝落ち電話をしてた。

1人だと、ベッドに入ってから眠りに落ちるのに2、3時間はかかるから。

 

誰かに、話続けていてほしかった。

我ながら、メンヘラだなぁ。

 

でもその寂しさから作られた”人に出会いたいエネルギー”って、とてつもなかったよなとも思う。

今となっては「若い頃人見知りだった」と言うと「嘘つくな」と言われるくらいだけど、本気で人見知りだった。

中学生くらいまでは全然タイプじゃないのによく話しかけてくれる人とか、ぶつかって「ごめんね!」と言ってくれるだけでも恋しそうになるくらい、簡単に釣れる女の子だった。

 

なんだけど、私はどこかの誰かに電話が繋がる斎藤さんアプリで寝落ち相手を探しまくっていたから、いつの間にかめちゃめちゃコミュ力は上がっていた。

斎藤さんアプリで、トライアンドエラーしまくってた。

 

そのうち定型文の会話に飽きた。

「どこ住み?」

「何歳?」

「何してるの?」

 

こんな浅いアプリでそんな浅い会話して何が楽しいんだ?と思って、真面目に返さなくなった。(一般的にはそういうやつの方が怠いと思われるのだろう。くそアプリに何を求めてるのかと。)

 

 

「どこ住み?」「色んな世界に住んでる。」

「何歳?」「歳を知らない方が私のこと、もっとシンプルに知れるかもよ。」

「何してるの?」「君は今何に興味があるのかについて、知りたいと思ってた。教えて。」

 

くそアプリをなんとか面白くしようとするくらいには、時間が有り余っていたあの頃。

面倒な女だ。

そんなやりとりを少なくとも1,000回はした。

基本を身に付けると、応用ができるという事実を学んだ。

 

こんなに斎藤さんアプリを人生に持ち込んで、成長に活かした人は私が1番だと思えるくらいいやった。

私の尊敬する人たちってさ、みんなスポーツとか受験で人生の基盤築いてるの。

 

一応私も、ミニバスとソフトテニスはやっていた。あとダンス。

運動好きだけど苦手な残念なタイプだったから。

 

受験も専願受験と推薦入試だったからな。

一応国公立コースで真面目に勉強してはいたけど。

 

だから私の誇れるものってどこにもなかったんだけど、出会い厨だったことには誇りを持てる。

そうして私は自分の人生の基盤を築いた。

すごくてかっこいい人はたくさんいるんだし、こんな奴がいたって世界の幅が少し広がると思えば楽しくないか。

 

そんなことが誇れるだなんて当時は思ってはいなかったけど、大人になってそれが私なんだと腑に落ちた。

 

受験も部活も中途半端、人生中途半端だけど、人と繋がりたい意欲は人より大きかった。

そもそも中途半端がわるいだなんて世の中が決めているだけで、私の興味のあることを欲求が満たされるレベルで辞めて何がわるいのだ。

 

そう開き直れるくらいには、強くなった。

完璧ではないけどね。

 

 

大人になって、寂しい夜はなくなった。

それは、少し寂しいことのような気がしなくもない。

 

でもあの時の弱い自分、誰かにすがりついていた自分が、現在の自分を強くしてくれている。

そう思う。

 

人間は”弱い”っていう強みを持ってるんだって。

 

弱いからこそ、「栄光の架橋」で”誰にも見せない泪があった”の部分に共感して泣けるし、

仕事が辛くても一緒に頑張っている同期がいることの幸せを知れたりする。

 

弱い自分がいたからこそ、もっと強くなれたときに、もっと自分を好きになれる。

弱い自分が頑張った時間は、誰にも奪うことのできない自分だけの資本だ。

その資本で人生において事業を展開するのだから、面白くないわけがない。

 

 

そんなことを思いながら、私はまた、強くなろうとしている。

”何に向かってるんだ私!いや、瞬間を生きろよ私!”と矛盾の切なさを抱えながら走った夜の出来事

「何に向かって生きてるんですか。」

その質問が嫌味に聞こえたらしい。

 

「そういうこと言う人、おるんよな。」

「違いますよ、そういうことではなくて。素直な気持ちで聞いてるんです。なんでそんなに毎日毎日頑張れるんですか。」

 

「あーね。ごめんごめん、嫌味かと思ったわ。ダンスめちゃめちゃ頑張ってたときも”そんなにダンス頑張って、プロのダンサーにならないのにどうするの?”って聞いてくる人とかいたんよな。俺は長所をつくっていきたいんだよね。そのためには頑張ることを中途半端にするのは嫌で、全部振り切りたい。そうやって自分の幅を広げたいの。」

 

野球部のキャプテンのときはみんなに”素振り200回はしろ。”って言っていたけど、彼はバットに重りをつけて毎日500回素振りをしていたらしい。

 

そういう話を聞くと、私は泣きたくなってくる。

なんでかってことを正直に言うと、自分に頑張れない認定をしてしまっているからだ。

頭では言い訳だと理解していても、自分の小さい頃の成功体験がないという記憶が潜在意識にすり込まれている。

 

頑張れない認定をしてしまっている自分は大いにダサい。

 

わかっているからこそ、悲しくなってくる。

悲しくなるんだったらやれよ、Just do itだろと思ってまた泣きたい気持ちが大きくなる。

 

 

 

今日は仕事で疲れてベッドに倒れこんでいた。

今日は走って筋トレしたいなーと思いつつも、眠すぎて身体が動かなかった。

 

”トントントン”

「はーい?」

「もうごはん食べた?あら汁作ったけど、食べる?」

「食べる!!」と言うのと同時に身体が跳ね上がった。

しげくんは料理が好きで、たくさん作ったときはいつも私たちシェアメンバーに配給してくれる。

 

作ったごはんをくれたり、食べているものをシェアしてくれたりする人がいるのって、この世で幸せ感じる瞬間ランキング上位だよなって思う。

 

だから私はあんなに眠たかったのに、べッドから離れられた。

おいしーい幸せを飲んでいたら、”バッドに重りをつけて素振り500回していた彼”が帰ってきたから冒頭の会話になった。

だって毎日毎日どんなに忙しくても、朝早く起きて会社に行く前と帰ってきた後に勉強してるんだもん。

 

あら汁を作ってくれた20歳のしげくんも、夢に向かって必要なことを毎日勉強している。

  

人と比べてしまうのも良くないけど、これは私にとっての刺激なんだと思う。

「自分のペースでいいんだよ」と言ってくれる人もいるけど、それもわかるんだけど。

努力に関しては、甘えと自分を律することの境界線が難しい。

 

目的が”幸せを増やすこと”であるのを忘れてしまっては、意味がないから。

でも、そんなことをうじうじ考えている自分も嫌になってくるループ。

ほんとにJust do it大事。

 

重りバッド500回素振りの彼も「努力は正しい方向にしないくらいだったら、寝てる方がマシだ。」と言っている。

 

”努力は自分の幅を増やすためのツール”なんだよなって改めて認識できた日だったなー。

 

とか言ってみるけど、その会話をした後に劣等感に苛まれた私は居たたまれなくなって、ランニングをしに家を飛び出した。

 

 

きっと1人で暮らしてたらべッドからも起き上がれず、寝落ちしてしまっていたんだろうなって思うと、私の日常に出てくる登場人物は強い。

 

”何に向かってるんだ私!!いや、瞬間を生きろよ私!!”って泣きながら走ったのは、秘密にしとこ。