開き直って、無駄な感情からしか生まれないストーリーを作品として昇華する。

 

「人間になり切れてないねんなぁ。」という言葉に、共感した。

 

夜はベッドに入っても大体眠れないので、YouTubeを聞きながら寝落ちするのを待つ。

昨日はお笑い芸人の又吉さんの『又吉少年が悩んだ道徳』を聞いた。

その話の一部はこんな感じ。

小学生低学年の又吉少年がみんなで缶けりをしていて、「参加者15人が一斉に出て行ったら、鬼が全員の名前を言い終わる前に他の誰かが缶を蹴れるのではないか」という作戦を思いついて実践した。

 

その作戦は大成功したし、その状況が可笑しくてみんなで盛り上がった。

先生が「誰がこの作戦思いついたの?」と聞くと、他の高学年の男の子が「僕が考えました!」と言った。

 

又吉少年はその行為に対して、理解ができなかった。

なぜなら面白いことを考えられることにしか、意味がないと思っていたから。

人に評価されるのは後から自然とついてくるものだから、先生だけを騙して褒められたいために嘘をつく男の子の気持ちがわからなかった。

みたいな話だったのだけど、確かにそういう子どもってたくさんいる。

成長するにつれて「自分が褒められたいために嘘をついたり、人の功績を横取りしたりするのはダメなことなんだ。」と学んでいくが、大人になっても仕事で後から絶対にバレるミスを隠してまで褒められようとする人もいる。

これはわかりやすい”褒められたい”と思う承認欲求で、人間らしさではあるのだよなと思う。

私は本当はそういう”人間らしさ”を感じるものが好きだったりする。

 

「どういう本が好き?」と聞かれて、「最近だと『20代で得た知見』ですね。」と答えた。

 

「その本のどういうところが好きなの?」と聞かれて、

少し考えてから「何気ない日常で筆者が感じたり考えたりしたことが書かれていて、その文章やストーリーに筆者らしさを感じられるところが好きです。」と答えた。

 

つまり私は人間らしい感情と、そこからしか生まれないストーリーが好きなのだ。

生物学的には強いて言うなら子孫繁栄の為の愛情くらいしか必要のない感情だと思うが、未だに名前のつけられていない感情は無数にある。

その無駄な感情が好きなのだ。

 

私はこの文章を書きながら、”楽しんでいる自分”と”こんなつまらない文章誰が読むのだろう”という2つの感情が併存している。

ただその”矛盾”を楽しめるのも人間にしかできないことなのかと思うと、それさえも楽しめる気がしてくる。

 

昨日は本当は珍しく早起きして(AM10時)活動しようと意気込んでいたのだけど、ちょっとしたきっかけで目標にしていたことを損得で考えてしまったら、その日は頑張れなくなってしまって結局夕方の仕事の時間までSNSを見ていた。

 

薄暗い気持ちのまま仕事に行って、帰る時間には雨が降っていた。

どうせならこういうときにしか沁みない歌を聴こうと思って、Mr.Childrenの『終わりなき旅』を耳に流しながら帰った。

夜の雨にこの曲が合うことを初めて知って、少しるんるんで帰宅した。

 

こんな1日丸々無駄だとも思うが、そんな無駄な1日がない面白味のない人間にはなりたくない。

どれだけAIやロボット技術が発達したって、人間にしか創り出せない感動がある。

私はそこにロマンを感じているから、ロマンチッククリエイターになったのかもしれない。

 

感動って、感情が動くことである。

物事が全て思い通りになる人生では、感情って動かない。

ロボットがわざわざミスをするようなプログラミングで作らないわけだし、そうなると人間の役割ってこれからもっと明確になっていくのではないかって思う。

又吉少年の別の話で、体育で毎回自己ベストタイムを出そうと1人で休憩時間中にグラウンドを2周してアップするまでガチでやってたら、中学のクラスでダントツで足が早かったのに全然モテなかったと話していた。

気だるそうなヤンキーとか、普段ふざけてる男子が走ると足が速いからモテるのだ、と。

 

又吉少年はそういう経験をして”普通の人はこういう時どう発言・行動するのだろう”と考えて、普通の人に合わせて生きるようになったらしい。

彼はそれをアンドロイド化したと言っていた。笑

 

そういう人間社会って、この又吉少年みたいな面白味のある人材を潰してしまうよね。

彼は現在でも面白くて好きなのだけど。

 

私も小さい頃は周りと違うのが本当に怖くて、

「みんなはどういう服装で行く?」

「何時にくらいに学校に着くように行くのかな?」

とか、あらゆることを友達と同じにしないとと思って生きていた頃があった。

 

それもマズローの欲求5段階でいうと社会的欲求なのかもしれないけど、今思うと不思議だなぁと思う。

結局大人になってモテるのって、逆の人だからだ。

 

どこか人と違う魅力がある人が人気者になる。

皮肉である。

 

でもやっぱり一旦集団に合わせるということを学んだ上で自分の個性を磨いていかないと、人気者にはなれないのかもしれない。

本当の本当の天才って、集団生活においたら嫌われちゃうタイプが多いもんな。

まぁそんなことどうでもいいのだけど、とりあえずそんなこと考えてるからベッドに入ってもなかなか眠れないんだということはわかった。

 

 

冒頭で述べたことについては、又吉さんがトランプで大富豪をしているときに、大人同士でお金とか何も賭けていないのにめちゃめちゃ盛り上がっていた話で。

 

大人でも緊張感や常識を外していけるゲームってすごいなぁと思うと同時に、そんな中でも自分はそんな大人たちを観察してしまっている自分がいて、「まだアンドロイドやってんなぁというか、人間になり切れていないねんなぁ」と言っていた。

私もそれに似たようなことを感じていて。

27歳、楽しいことをしていても、どこか冷めている自分が嫌だなぁと思ってしまう。

 

これってどういうことなのだろう。

私の中で、社会に揉まれると起こる現象ではあるかもしれない。

 

世界を知れば知るほど、人間的に頭が良い人と話していればいるほど、自分のダサさとの格差にやられてしまっているこの感覚。

 

私はただバカになって踊っていたいだけなのに。

自分のいる環境に踊らされてしまっている自分がいて、情けなくなったりもする。

 

だから自分の恥ずかしい面は積極的に晒していこうとしてきたつもりだったが、いつの間にか敢えて晒さなくてもいいかなと思うようになっていた(これにはメリットもあるのだけど)。

 

それって果たして自分的にOKなのか?

でも、ナチュラルに生きることを今年の目標にしていることを考えると、自然にいきついた自分をただただ肯定すればいいだけかもしれない。

 

答えが出たのか、出てないのかはわからないが、まずは全力でどんな自分でも肯定するゲームをしてみることにしようか。

 

惨めな自分もとことん愛してみよう。

愛せない自分も、楽しんでみよう。

 

その狭間で生まれた感情から生まれるストーリーを、ここにまた晒していこう。

うん、それでよし。

 

 

そうだ、ファビュラスなパンツを買おう。

本のタイトルに「~しなさい」と書いてある本は絶対に読まない。

私のポリシーだ。

 

自分の大人な思考に頭が追い付かないことが多々ある。

そんなとき私の身体は、勝手に目から老廃物として水が排出される仕組みになっている。

 

泣いてばかりいる人生、どんとこいだ。

 

 

最近はやる気が起きない。

 

ググっても本を読んでも、「やる気が出ないときは、とりあえず5分でもいいから動いてみよう!」と書いてある。

嫌です。

 

だから私は「暇」をした。

 

暇だなんてここ何年も思ったことなかったから、

久しぶりに「今地球って回ってるんだよな」なんてどうでもいいことを考えたり、

家の壁をボーっと見つめるなどした。

 

人生に目的がない大人はこうなる。(ポジティブにいこう)

  

私だってイケイケのドラァグ・クイーンになってエンディングで「Ruby Is Red Hot」が流れてくる人生とか送ってみたい。

 

ただ私に似合っているのは、真夜中にお腹がすいてツナ缶を缶のまま食べる小さな幸せがある日常だ。

 

YUI の「feel my soul」を聴きながら泣ける人生も、楽しい。

 

毎日、「今日までが、序章の序章だ!」と思いあがるのも人生だ。

楽しもう。

究極のシーンで「そもそも私って人間だったっけ?」と、常識から疑ってみる現実逃避を取り入れる。

今日の私は治安が悪い。

誰に向けたいのかわからないレベルの中指を立てたい気分だった。

 

駅から徒歩3分で帰れる道をのろのろあるくだけでは物足りず、家を通り過ぎて歩き続けた。

  

眠たいはずなのに、家に着きたくない矛盾した気持ちでとりあえず昔よく歩いた道を進んだ。

 

そういえばお気に入ったお香がなくなってたんだと思い出し、ドンキ・ホーテに立ち寄る。

そしたらお酒が飲みたいわけではなかったけど、なんだか悪いお酒の味が飲みたくなって、いつもは選ばない缶のジントニックを選択した。

 

 

1人でお酒を歩き飲みするなんて治安悪いなと思いながら、前にジャンと見つけた屋上に向かっていた。

 

何も考えずに、私の指はジブリコンサートの再生ボタンを押す。

 

東京の夜は青い。

人が密集しているはずの街に、自分しかいない世界にいるような感覚になれるのは何故だろうか。

百年ぶりの世紀末だな。

なんか涙が出そうだ。

 

久石譲の音楽は、ありそうでない、ないようで”ある”何かが胸に突き刺さって苦しくなる。

泪が出そうで笑えてくるのが、人間の心理の肝かもしれない。

 

人生のメリーゴーランドの終わり方のような最後だったら、幸せかもなと思った。

 

 

ディズニーは、夢を与えてくれる。

ジブリは、切ない感情と共に生きていく勇気をくれる。

  

だから苦しければ苦しいとき程ジブリの曲を聴くと、”現実だからこそ”なおさらドラマティックになってしまう。

だから久石譲は魔法使いよりすごいという理論が、私の中にはある。

 

なんて物思いにふけながら気付けばセットリストがルージュの伝言に変わっていて、るんるんと屋上の階段を下りて帰路に向かっていた。

 

そんな金曜日の夜。