死にたい私は、今日も楽しそうに生きる。

絶賛今の私は、”死にたい人”に分類される。

でも、物理的に死にたいわけではない。

人間として”死ぬ”という感覚を自分に突きつけたいだけだ。

死にたいという気持ちは、真剣に生きることに向き合っているからこそ感じれる最上級の大人の嗜みだという人がいる。

皮肉にも、私はそんな世界が好きだと思う。

明日、死んでもいいかも。
明日、死にたくない。

そんな狭間で生きている人間の人生はどれくらいの価値があるだろう。

私は今まで散々と色んな角度の世界を見てきたけど、多分肝心な何かを見ていない。

この文章を書いている私は、”わたし”ではない気もしているし。

でも本当は、絶望が好きだったりするのかもしれない。

絶望するたびに、「もうどうなってもいいから好きに生きよう」と考え、「はい、ここまで第1章ね!」と開き直れるので。

そんな状況で、「人間は怠惰だから、何もしないと土にかえっていくんだ。だから秩序を持って能動的に行動することが大事なんだよ。」と、言われた。

変に、腑に落ちてしまった。
恋にも落ちたかったな。

最近は自分の部屋のベッドに寝転びながら、窓から見える青空を眺めていることが趣味になった。

私たちは、自由における恐ろしさを甘くみている。

人とのコミュニケーションってどうするんだっけ?という、ある種のゲシュタルト崩壊が起きるほどに。

地球にいる人間のうち、半分は宇宙人なのかもしれないという浅はかな期待を抱いてみたりもする。

最近、会社の上司に言われた。
「マジで小川さん宇宙人!」

いえ、私は小川(ちいかわ)です。

久方ぶりの世紀末。

いや、今日は2023年の大晦日だ。

スーパーで1人分のお寿司とどん兵衛の蕎麦、あとビールも買ってみた。

”20歳になってちょっとドキドキしながらも、ご褒美にビールを買ってみたときのワクワク”は28歳の私にもまだ少し残っている。

だから買ってみた。

休日のクリスマスに1人で過ごすのは嫌だけど、大晦日に東京で1人で年を越すのはそこまで寂しくない。

これは世紀末じゃない。

2023年の目標は「鈍感力」を高めることだった。

この目標は継続しつつ、2024年の目標は「人間を日常的に楽しむこと」にする。

2023年で自分自身について学んだこと
(仰る通り全てが自己満の世界で生きてます)

1.私が求めているものは、好きな人たちと深い繋がりを感じる瞬間、人生における冒険、何気ない日常であるということ

人と比べると物やお金、成功といったものにあまり対しての欲があまりないことを学んだ。

そういった欲があると思ってたし、そりゃあないわけではないのだけど、そういった分野で尊敬する人たちの真似をして生きてみたら”楽しいけど、なんか違う”ってなった。

それは上京してきて色んな分野の色んなタイプの人たちと関わったり、自分でも少し体験してみたからこそわかったことだ。

そもそも個人的に”あの人は人生成功しているよね”みたいな言葉があまり好きではない。

成功があるということは、失敗もあるということになるのが気にいらない。

綺麗事ではなく、生きてるだけで毎日みんな成功しているし、死んでしまった人も、生まれてこれなかった赤ちゃんも、命が発生した時点から成功してしまってるんだからね。

言うまでもないぞ。

あと、お金は大事です。

言うまでもなく。

2.「世界をみる角度」を発見していくことが好きだということ

写真や動画を撮影するのが好きだし、日常でも非日常でも、自分が経験した景色を発見していくのが好きだ。

それを編集で色や音楽をつけたり、文章を加えて表現するのも好き。

そして目で見える景色はもちろん、出逢った人の生き方やそれに付随する考え方だったり、自分が成長したからこそみえる景色が、この星にはたくさんある。

そういった発見をするために色んな経験をしたり、色んな人と逢ったりするのが好きです。

あと、自分が受け取ったものを世界に還元できる大人になりたいです。

いわゆる冒険家です。

3.HSS型HSP気質だということ

【HSS型HSPの特徴】
・高感受性:外界からの刺激に非常に敏感

・活発でエネルギッシュな性格:アウトドア活動、旅行などのアクティビティを好む傾向

・冒険心や探究心:新しいことに挑戦することを楽しむ傾向がある

・社交性や外交的な能力:社交性が高く、人とのコミュニケーションや人間関係を重視する傾向がある

・自由奔放:束縛されることを嫌い、自由で自分のペースで生きることを好む

私のことを知っていれば知っている人ほど特徴に当てはまっているのがわかると思うし、なんならこの記事を読むだけでわかっちゃうレベルでこれ、私のことなんですよ、切ないほどに。

ちなみにこれは病気ではないし、本当は勘違いされるのも嫌なのでどうかなと思ったけど、これは私だと胸を張って堂々と生きていきたいと思ったので、記事にも書いてみた。

自分の性格とやってることとの矛盾が多すぎて、言うならば「ロマンチックなサイコパス」のような性質らしい。

自分で納得してしまえた。

今後の人生はそんな自分の個性をどれだけ才能として生かして楽しく生きていけるかに挑戦していきたいと思った次第です。

・能天気に見せて銀河系より壮大に悩み

・周りに余裕に見せて思考の洪水が渦巻き

・期待に応えるために限界極限まで追い込み

・グループに合わせ人格を創造しては破壊し

・負荷が限界になって感情の電源が落ちても

・好奇心旺盛で刺激を求め何度でも繰り返す

・そんなループに疲れたら定期的に日記やSNSで言語化して、「本当の自分の気持ち」をたまに俯瞰する→まさに今ここ

ちなみに1月末までお仕事休職してます。

そろそろお寿司と年越し蕎麦を食べながらビールを飲む時間がやってきたので、来年のテーマソングを発表しようと思う。

「情熱の薔薇」:THE BLUE HEARTS

見てきた物や聞いた事 今まで覚えた全部
でたらめだったら面白い

映画や小説はミステリーが好きなのですが、死ぬときに伏線回収できるネタをどれだけ撒いていけるかという感覚で毎日生きてます。

死にたい私は、2024年を楽しみにしています。

冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを勝手に食べちゃってから始まる、浪漫飛行。

私はもっと自分の生命をエンターテイメントとして楽しみ尽くしたい。

出世だとか結婚だとか、老後がどうだとか、どうでも良くなくなるくらい”今この瞬間”を楽しみたい。

そういう”日本語には存在しない部分の日常”を冒険していたい。

失敗しないように、死なないように生きる人生は嫌だ。

失敗しても笑い飛ばせる生き方をしたいし、死ぬくらい本気になれることを見つけて死んでいきたい。

「昨日はなんであんなに笑ったんだろう?」って思うくらい笑い転げる夜が、いくつも欲しい。

「欠点だらけの相手なのに、なぜか愛してしまった」という恋愛をしてみたいし、自分なんてどうでもよくなるくらい誰かを愛せる恋愛がしてみたい。

2人とも眠れなくて、明け方に1つのカップラーメンを分けて食べて「足りなかったね。」って会話をしたい。

今の私は自己欲求まみれだ。


まぁ、そんな人間も可愛いか。

そうやってゆるく生きたいのなら、自分自身に正論をぶちまかすな。

固定概念で自分を見誤るな、と自分に言い聞かせることは大事だ。

目に見えている現実は、私が創ってきたものであることを忘れちゃいけない。

自分がどんな人間だっていい。

私の中にはポジティブだけど根はネガティブで、パリピだけど陰キャで、バカだけどずる賢い自分もいる。

その事実こそが私的この世界の最も面白いコンテンツとして、優勝してる。

最近気付いたのは、他者は自分と同じではないということ。

当たり前なんだけどさ。

自分が当たり前と思っていることを当たり前と思っている人は、思ってるより少ない。

「これだけはこれが正義!」というものなど存在しない。

そもそも正義なんて、人間社会でしか存在しない。

だから冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを食べちゃったって、宇宙からしたら本当にどうでもいいことだ。

そんな世界の中で、それでも、人間の綺麗な心は死んでも持ち続けていたいのである。


そんなこんなで、湯船に浸かりながらcanvaで作ってみたロック画面がこちら。

画像

苦しいとき、辛いときに、「”面白くなってきた!”と叫べ!それだけでいい!」というメッセージを入れてみた!

デザインは「不安になったら今目の前にあることだけに全集中しよう。気付いたら夜明けが近づいてたりするもんだ。」という意味を込めて選んでみた!

でもさ、朝起きたらさ、そう覚悟を決めたことさえもすっかり忘れてたんだよね。

人生ってそんなもん。

なので1周まわって、ロック画面はこれに設定した。

画像
私の直筆です

こうやって後先考えないで、今絶えず私の中に湧き上がってくる感情をつらつらと書くことで、成仏してくれる負の感情があるので文章書いてます。

ここまで長々と書いておいてなんなのだけど、適当に生きる宣言します!!!!

実写版アリエルから”世界をみる角度”をまた1つ教わった話

家族には、私のやりたいことをずっと反対されてきた。

「看護師として安定に働いて、田舎で暮らして早く結婚するのが1番幸せだぞ。」

「東京はこわいところだ。看護師を辞めてよくわからない会社に入るなんて馬鹿げたことをするな。」

と。

確かに家族の言う幸せも、この世にはあると思う。
その考え方を否定するつもりはない。

でも人はそれぞれ価値観が違う。

家族はそういう人生を送るのが幸せだと思うのはわかるけど、私が幸せかどうかは私にしかわからない。


私は”みたことのない世界を冒険したい”という思いが強かった。

だから反対を押し切って上京したし、看護師も辞めた。

色々なリスクも背負ったし、たくさん悩んで傷付きながらここまで生きてきた。

自分で自分を信じられないときもたくさんあった。

だからこそ私は、「陸の世界に憧れるアリエル」と「声を失うかもしれないリスク、元の居場所に戻れなくなるリスクを背負ってでも、人間になれるチャンスを掴みにいくアリエル」にとても共感するのだ。


“アリエルよく聞いてくれ
人間の世界は最低だよ
海の底の生活こそ
どこよりも楽しいんだから”

隣の海藻は 青く見えるさ
陸に行くのは 大きな間違い

まわりを見てごらん この海の底
なんて素敵な世界だ これ以上なにを望む

素晴しい アンダー・ザ・シー
ダーリン 私の言うこと信じて
あっちじゃ働くだけ 朝から晩まで
こっちじゃずっと遊んでラッキー
アンダー・ザ・シー

「アンダー・ザ・シー」より

実家ではこんなことをずっと言われていたので、その歌詞と家族の言葉がとてもリンクする。


陸にはいないわ あんなわからずやは
私は子どもじゃないのよ

「パート・オブ・ユア・ワールド」より

だからこそこの歌詞とそっくりそのまま同じことを思っていた。

ディズニープリンセスって、”まるで私のことを言ってるの?”と思わせる天才だよね。
同じこと思ってる女の子たくさんいると思う。

でもそれで言うと「アンダー・ザ・シー」は嫌な曲になるはずなのだが、あの明るくて誰もが楽しくなっちゃうような音楽になっているのが、今回大人になって改めて映画を観た私の心に刺さりまくった。

(アリエルのお父さんや)セバスチャンにも正義がある。
アリエルが幸せになるのは心から海の世界だと思っているからこそ、ハッピーに海の世界が幸せだよって歌ってるんだよね。

海の世界の良さもわかるし、”隣の芝生は青く見えるさ”の部分も、その通りだと思う。

私の家族もそういうことが言いたかった部分もあるだろう。


学生の頃は田舎が嫌で嫌で仕方なかったからこそ、東京にすごく憧れていた部分もあったので、田舎の良さなんてみようともしなかった。

だから家族が言っている幸せも事実存在しているのだということをわかってはいたけど、改めて大人になって理解できることもあり、私の心はなんかこう…揺さぶられた。


そう、だからこそ今でも自分の選択してきた道が正解か間違いかなんて、わからない。


ただ確実に言えることは”今、とても幸せだ”ということ。

自分の心に素直に生きて、たくさん挑戦して、たくさん失敗して、それでも明日もっと自分を好きになれる、もっと幸せになれるって思って日々を生きている。

挑戦すること、失敗すること、悩むこと、落ち込むこと…これは当たり前にできることではない。

そして頑張って、苦しんだ結果、達成した喜びを感じることも、支えてくれた人の存在の大切さに気付けることも、当たり前ではない。

全部含めてそれができているのって、私にとってはとても幸せなことなのだ。


そしてその28歳の大人が今までしてきた生き方とリンクさせながら感動で涙できる作品を創れる大人を、私はすごく尊敬する。

伝えたいことをそのまま言葉にしても伝わらないことはたくさんあるから、それを映画というエンタメに昇華させると、面白いことに新しい世界観ができ、その分この世に”世界をみる角度”がまた増える。

「リトル・マーメイド」のファンからしたら、冒頭音楽の前奏が流れてきただけで鳥肌がたったなぁ。

ストーリーがわかっていたって泣けるし、なんなら”次はこのシーンだな”って予想できた時点で涙が出てくる。

エンディングでも「アンダー・ザ・シー」が流れるのだが、個人的には最後にあの楽しい音楽が流れてきたことで、再び涙が出てきたくらい心に響いた。

先程書いたように、「アンダー・ザ・シー」は家族の存在とリンクしているように感じるので、最後に曲が流れてきたときに家族の存在を想起したのだ。

人間は矛盾を抱えている生き物だと思う。
人間は矛盾を抱えて生きれる生き物だ。

光があるから闇を知り、闇があるから光を知れる。
矛盾があるから人はより、自分のことを知れるのではないだろうか。


だからこそその矛盾さえも総じて面白がれる人間になれたら、また新しい世界がみえるかなと思った。

あとアリエルとエリックのデートコースは私も死ぬまでに経験したいです。

よろしくお願いします。

28歳目前(女)の失恋は重いが、結果、全ては人生を楽しむための前振りだった。

「今じゃなくていいけど、将来結婚を考える可能性はあるの?」

「ない。」

「あ、そっか、じゃあ..バイバイ。…今までありがとう。」


2023年1月8日に、28歳を目前にして失恋した。

初めて現実的に”この人と結婚したい。”と思った人だった。




確かに最初から結婚は考えてないという人ではあったけど、私と出会って少しは考え始めたと言ってくれたことがあった。

私も今すぐに結婚したいわけではなかった。

だから確実に結婚するわけではなくてもいいので、お互いが好きならば一緒に居ればいいと思っていた。

でも出会って11ヶ月で将来結婚を考えてないと言われてしまったので、私は別れを告げた。


やはり幸せな家庭を築くことが夢だったので、可能性が0%と言われたら28歳を目前にした女として適切な判断だったとは思う。

ただ、同時につまんない女かもしれないなと思った。


なんというか、ロックじゃない。
うん。


自分が20歳代前半のときに、アラサーになって結婚に焦ってマッチングアプリで初めて会った人に質問攻めしている人になんてなりたくないと思っていた。

私はその二の舞になろうとしている。


だって、今回の失恋の学びを生かすとしたら、好きになる前に”結婚の意思があるかどうか”って確認することではないだろうか。


だから、まさか自分にこんな壁が立ちはだかるなんて…と嘆いた。

そして子どもを産むなら色々なリスクを考えると30歳くらいで産みたいなというイメージがあるだけで、産もうと思えば40歳過ぎても産める時代だ。

増してや27歳の私が、その1つの基準からした判断だけで今好きな人と敢えて別れるのは、人間らしくないのかもなんて考えが頭をよぎった。


でも私は、理性的な選択を選んだ。


…いや、もしかしたらロックではないけれど、ロマンチッククリエイターとしての直感で選んだのかもしれない。



まぁそんなことはどうでも良くて、私はひとしきり泣いた後、6時間後には案外スッキリして気持ちが切り替わっていた。

女って強いなと、自分で自分を感心した。


ありのままの私を愛してくれない人に費やす時間はないのだ。

ちなみにメンタル強いねと言われるけど、このメンタルになるまでに27年かかりました。


そしてその勢いで、マッチングアプリを登録した。
“婚活とかなんか楽しそうじゃん”というノリで。


ただ、数日後にはアプリの男性のプロフィールを見ながらスキップしまくっている自分に対して自分で蛙化現象になってしまった。

“え、何様ですか私?”

“なんだこの心のない作業は…”

という風に。



そして極めつけにはそんな中でもマッチした2人と会う約束をしたのだけど、2人とも日時まで決まっているのに当日返信が返ってこなかった。

え、この社会ってそんなに「今日行けません」という連絡さえ入れられない人がたくさん人いるの?と嘆いた。


だから1人でラーメンでも食べて帰ろうとしたのだけど、今日は大好きなラーメンでは自分を慰めてあげられる自信がなかった。


なので心のおける女友達に連絡してみた。

「これからもーちゃんたちとタコパするけど来るー?」って返信がきた。


私は今日、タコパをする運命だったんだ!と電車に飛び乗った。
神様ありがとう!!


それでね、タコパをしながら各々の近況を話しながら、あーでもない、こーでもないってワイワイした。

女子会って最高すぎるよな。


で、友達が持ってる「EARTH GYPSY ミラクル 奇跡の毎日が始まる」という本があるのだけど…

“思考”を捨て、”直感”に従い、自分の心に素直になれるメッセージを届けてくれるという本。


本に心の中で質問して、ぱっと開いたページに書いてある言葉をメッセージとして受け取れる。
(方法は他にも複数有。)

私もやってみた。

「私が今やることは何ですか?」
という質問に対して出たメッセージは、

「統合」だった。

 

〜統合の詳細〜

私たちはパズルを組み立てている。
大部分ができたところで、それはそもそも自分が作ったパズルだったことに気づく。

自分で作って、自分でバラバラにして、バラバラにしたピースを1つひとつ集めていたことに気づく。
そうやって、「自分の生きる意味」や、自分の全体が明らかになるのだ。

と書いてあった。

あーなるほど、腑に落ちたという感覚。

去年の4月に会社を辞め、フリーターをしながら休息と今後の方向性を約1年考えていたところだった。

その1年をほぼ共にした好きな人との別れもあったし、来月転職2回目になる会社で働くことが決まり、思い切ってエジプト旅行へ行った結果、この1年を締め括った感覚があった。

そしてそこからの新しい会社、未経験の職種で働くという挑戦が2月から始まる。


現在の私は、まだ何者にもなっていない。
だけど、1年前までの私と大きく違う点がある。


頑張らなくても、ありのままの私を認められるようになったことだ。

27歳に決めた1年の目標は、「とことんナチュラルに生きてみる」だった。

どんな小さなことでも自分の心に忠実に従って行動すること。
意外と難しいのだけど、リハビリを重ねるとできるようになってくるもので。

それって私の人生にとってすごく革命的なことだった。

現在の自分を認めることができたからこそ、結婚願望が湧いてきたというのもある。



ただ、そんなに結婚に対して焦らなくてもいいということも頭ではわかっていた。

こういったことを総じて考えたときに、本から自分に与えられたメッセージが「統合」という意味がすごく腑に落ちたのだ。



今までやってきたことが一見バラバラな様でも、いつかどこかでそのバラバラだった点が繋がるときがくるとなんとなく感じていて。

それが、これからの私の課題なのかなと思った。

いつものようにオチもなくまとめると、結局落ち込んだりしたときは、その後の”嬉しい”とか”感動”したりだとかいう感情を最大限楽しむための前振りでしかないのだと思うのもありかもということ。

渦中にいるときは絶対そんなこと思えないのだけど、心が平穏なときに振り返るといつもそうだということに気付く。

しかもそれは自分が操作できるレベルのことではないからこそ、状況が好転したときの反動が面白い。



今回は友達とのタコパに救われたし、結果良い思い出になっちゃってる辺りがロマンチッククリエイター的に◎なのです。


そう考えると、落ち込んだり、悩んだりすることも総じて愛しい経験だなと。




ちなみに最後に。

カラオケでhitomiさんの歌をよく歌うのだけど、この前別の女友達とスナックに行って一緒に熱唱してたら、歌詞が今の自分にちょっとリンクしてしみた

〜LOVE2000

愛はどこからやってくるのでしょう
自分の胸に問いかけた
ニセモノなんか興味はないワ
ホンモノだけ見つけたい
————————————–


…という歌詞に沁みたのだけど、後からたまたまhitomiさんが「LOVE2020」という歌を出していることを知った。



〜LOVE2020

愛はどこからやってくるのでしょう
自分の胸に問いかけた
食べてみたらマズかった事でも
私の強さに変わってた

愛はどこからやってくるのでしょう
自分の胸に問いかけた
ニセモノだって愛せたなら
ホンモノだって輝き出す

—————————————–

 

この歌詞に共感できる人生を歩んでいて、私は幸せだなと思ったわけです。

 

苦い思いをしなかったらわからなかった幸せが、この世にはある。

 

音楽はそれを思い出させてくれる文化なので、尊いです。

 

 

自分のLOVE2040がどうなっていくのか、楽しみにしながら毎日を生きようと思います。

 

 

 

「私はくそつまならい、普通の人間であるからこそ面白い」という勇気を述べる

自分の客観的で冷静な思考と、ありのままの自分の本心が矛盾して起こった化学反応によって、何かを乗り越えたのちに新しい自分ができる。

そしてその化学反応で一緒に生成される産物が、涙だ。

CO2+H2⇄CO+H2Oで一酸化炭素ができるのと同時に、水ができるみたいにさ。

 

最近何をするにも自分きもいし、ダサいって本心が思ってしまって、頭では「お前、かっこいいぞ。」って言い聞かせてあげるのだけど、結局こらえても後で1人で泣いてしまったりする。

本心と喧嘩して少し新しい自分ができる代わりに、涙が生成されてしまうという仕組みだ。

 

「お前頑張ってるじゃん」の”頑張ってる”を、どうしても主観的にみてしまって。

こんくらいで頑張ってるとか言い聞かせている自分が嫌になるという、悪循環があったりする。

 

上司に叱られているときも、頭で成長するために上司の言っていることは正しいから自分がまだまだなのだとは思うのだけど、心はもっと未熟だからついていけない瞬間がある。

なんなら生理前なので、正論とかいう類のものが全てうざくなってくる。

上司の正論にイラついているのではなく、自分がその正論に当てはまろうとしていることが。

 

自分の本心くらい、大事にしてあげろよって。

正論で成長する部分があるのは確かだけど、とりあえずその叱り役は上司が担ってくれているのだから、自分でその役を買わなくたっていいのだ。

 

お父さんが叱り役なら、なだめ役のお母さん的な存在も自分の中に必要なのだ。

 

とりあえずどうしても自分を許せないのなら、自分の理不尽な感情を肯定する勇気を持ってみるなどしてみる。

 

1人で勇気が持てないのなら、Betty Davisのようなロックとか、GIRLBOSSのような映画を観て、背中を押してもらいにいけばいい。

ロックにのれない人生は、きっとつまらない。

「ドンキ行かん?」から始まる、日曜日の夜

当たり前のように明日が来る毎日に、焦っていた。

 

「ドンキ行かん?」

日曜日の夕方、廊下でばったり会った彼が提案してきた。

 

「じゃあドンキまで、そこのコンビニでお酒買って1本飲みながら行きましょう!」

「なんでやねん。コンビニにも俺の買いたい緑茶はあるんよ。でもドンキの方がちょっと安くなるからドンキ行こうと思ってるのに、コンビニで買ったら意味ないやん。」

「日曜日は、無駄をする日じゃないですか!」

「確かにそうやな。」

 

思ったより簡単に、説得できてしまった。

 

追加でみほちゃんとしげくんを口説いて、みんなでドンキまで出かけることになった。

わーい、みんなでお出かけ。

 

もちろん、ちゃんとコンビニにもみんなを引き込む。

みんなも「じゃあ飲むか。」と言って、お酒を買った。

普段みんなそんなにお酒飲まない大人なのに、私のわがまま聞いてくれたことが嬉しくて、にまにました。

 

そんでもって私は、角ハイボールを買った。

昨日観たYouTubeで、手越が「体絞ってるから」といって飲んでたお酒が角ハイボールだったから。

 

「かんぱーい!」

コンビニの前で乾杯して、出発した。

いざ、ドンキへ。

 

「うわ、まず。やっぱまずかった。角ハイボール久しく飲んでなかったけど、まずい。」

「そりゃあ、そうだろ。」

みんなジュースみたいなお酒飲みやがって。

 

調子に乗って、強いお酒を選んでしまった。

みんなと飲めるのが嬉しかったから。

 

でもまずいし、度数強いし、歩いてるし、すぐ酔った。

じわじわって、普段は冷え性なのに体の循環が良くなってるのがわかって、気持ちよくて、もっとにまにました。

 

のろのろ歩いたから15分くらいでドンキに到着した。

みんなで好きなように生活品を買って、帰った。

 

そんな日曜日、おばあちゃんになってもしたいなーなんて、帰り道みんなの後ろを歩きながら思った。

 

その夜は、”みんなも、みんなの人生を生きてるんだよなー。”とか当たり前のことを思いながら、

いつもよりちょっとぐっすり寝れた。

 

月曜日が楽しみとまでは思わないけど、「明日からも頑張ろ。うふふ」くらいの気持ちで眠りについた日曜日の人生。

多動性、衝動性によって生成されたロマンチッククリエイターの見解

ADHDだからかもしれない。

書くことが、心地良いのは。

ベッドに入って2時間くらい眠りにつけないのは日常で、瞑想もできない。

鬱な気分になることも、結構ある。

そんなメンヘラな自分を、未だに完全に好きになれないでいるのも事実である。

 

 

最近気付いたことがある。

何故私は文章を書くんだろうって考えてみたときに、実は「心のデトックス」をしていたんだということ。

 

日常でよくモヤモヤを感じるとき、どうすればいいかって調べると瞑想って出てくるでしょ?

 

だからやってみるのだけど、私は本当に瞑想ができない。

無になれない。

 

とっても瞑想したいから本気で何度もトライするのだけど、気付かないうちに数分で違うことを考えている自分に気付く。

自分でもこわいくらいに。

 

だって無になるのって、つまらないんだもん。

楽しいこと考えたいじゃん。

 

だから文章は自分に合った、心のデトックスの手段なのである。

自分のペースで、視覚的に見えるように自分のモヤモヤを文章にすることによって、その思いが浄化される感覚。

 

 

普段の何気ない時間に、自分の思考を客観的に観察してみたのだけど、めちゃめちゃ色んなことを感じたり考えたりしていた。

意外としないよね、自分の絶えず垂れ流しにしている感情だったり、思考だったりを改めて認識するという行為って。

 

だから夜も眠れないんだと思う。

グレーテスト・ショーマンの「A Million Dreams」の歌詞にめちゃくちゃ共感するもん。

 

毎晩ベッドに入ると

鮮やかな色彩で頭の中がいっぱいになる

無数の夢で目がさめちゃうんだ
 

僕が描いた世界は実現すると思う

無数の夢は叶えるためにあるから

無数の夢は世界を創るためにあるから

 

って。笑

 

未来を想像してにやにやしながら眠る日もあるし、自分の中にある闇の部分が広がって苦しくなる日もある。

寝るのが上手い人って、よく考えたらベッドでのこの妄想の時間ってないんだなって今気付いた。

 

小学生くらいのときは、好きな人と仲良くなる妄想を毎日してたなー。

現在は1mmたりとも恋愛の妄想とかできなくなってしまったのだけど、それってどうなのだろう。なんて思ったり。

 

 

ADHDの症状として、実際に入眠困難、睡眠の中断等がある。

そして日中は眠気の症状が強く出る。

 

私はまさにこれだった。

 

小学生の頃は毎日ベッドに入ってから2、3時間は眠れなかった。

 

大学の授業なんて、はりきっていつも1番前に座って真剣に聴いているのに、いつの間にか眠っている。

授業が終わって目覚めると、あーまた眠ってしまった…って嘆いてた。

先生からしたら、1番前に座っておいて堂々と寝る私のメンタルが理解できなかったかもしれない。

 

 

でも大人になってADHDグレーゾーンの診断をされて、改めて症状を調べたら殆どのことに当てはまった。

 

私はすぐ大事なことを忘れるから、何かやらなければいけないことができたらすぐにアラームを設定する。

これって小学生の頃保健委員会の当番の仕事を忘れて、クラスの男子に「お前、悪い子じゃん」みたいに言われたのがすごくショックだったトラウマがきっかけだと思う。(その台詞、改めて文字にするとなんか、あれだな…)

 

自分の携帯を持ってからは、アラームのメモに内容を書いて、思い出さなきゃいけない時間にアラームを設定して対策をするのが当たり前になった。

だから今でも夕方とかにアラーム鳴ったりするから、「え、なんでこの時間まで寝てるつもりだったの?」とかよく聞かれる。

 

精神科の先生は、上手く対策してきたんですねと言ってくれたのだけど、あーそういうことかと思った。

ADHDでなくても人間だから忘れることってあるけど、おめでたいことに、私は普通の人よりADHDの対策してるから大事なことを忘れないっていう長所ができた。

 

自分が人と違うことで自分を責めていた頃の自分に教えてあげたい。

 

お前それ、すごいもん持ってるじゃん!って。笑

 

人よりよく怒られるし、集中力がないから何かをやり遂げる能力も劣っていた。

そんなの人間社会のルールで言えば落ちこぼれなのだけど、大人になって思うのは、落ちこぼれは落ちこぼれなりの長所ができる。

そもそも「落ちこぼれ」なんて言葉は社会の中では使えるけど、地球的に言えば意味を成さない用語である。

 

仕事ができない人の気持ちが理解できるから、「なんでこんなこともできないの?」と正直思ってしまったとしても「ここで感情のまま伝えたって、それはかっこわるい上司と同じだ。」って踏みとどまれたことができたことがある。

 

よく怒られるから、怒られる度に悩んだし、でも悩んでるだけでは生きてなんていられないから、思考で前向きに考えられる能力も後天的に身に付けることができた。

それは最初からポジティブな人とは、また異なった長所だ。

ネガティブからのポジティブという”幅”を知っているのは、強いと思ってる。

 

人とは違う視点で物事を考えるきっかけが与えられているわけです。

それでいて、人とは違うことに気付けるようになる。強くね?

 

そもそも私のADHDに対する見解は、いわゆる”普通の人”よりも人間らしいのではないかってこと。

ちなみに忘れてはならないけど、私元看護師だからね。笑

一応、大学で精神疾患勉強してるの!

 

好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」

思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」

これらのADHDの特徴って、言い換えれば「自分の心に素直に生きてる」という長所を持っているということでしょ?

 

不注意さや物忘れも、あくまで社会の中で必要な能力であって、その能力が低いからといってその人自身の魅力は失われない。

 

むしろ私は自分の好きなことを素直にやっている人や、思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう人の方が好みだ。

長所とか短所とか、結局どの視点で、どの基準で決められてるのかって話。

 

いわゆる”できる系”の人だったら、こんなこと考えもしないわけである。

私はそんなできる系の人と真っ向勝負したっ勝ち目はごく僅かなわけで、戦略立てて挑むか、違う土俵で、違う視点で生きるのが性に合っていることも知っている。

 

そうやって色んな個性の人が、色んな出来事に揉まれながらも、最終的にその経験が自分の居場所を見つけることに繋がっていくのだと思うと世の中上手くできてるよなーと思う。

 

ADHDなんて、そもそも人間を統一するために不都合な能力を”病気”として捉えているだけの話だと、私は思っている。

 

だから、誇る。

「結婚は、3回くらいしたいと思ってる。」

彼女は真顔で言った。

 

確かに「結婚は1人の人と永遠に」が1番幸せになれるだなんて勝手に思っていたけど、そうでない場合もあるんだろうな。

 

もちろん1人の人と同じ幸せを育むのって、すごく幸せだと思ってる。

 

ただ思ったのは、自分でも知らないうちに決めつけている常識がまだまだ沢山あるなってことだ。

 

厄介なのが、自分でもそれを今まで生きてきた環境で自然にすり込まれた常識なのだと気付いていないことだ。

 

知らないうちにすり込まれた常識で、自分の幸せを決めてしまっているのが恐い。

 

だから私は色んな人にあって、色んな生き方を知って、自分の幸せを選択していきたい。

 

田舎で生まれたけど、ずっと村から出なかったら、自分の幸せは「大学に行って、看護師になって、それなりに旅行をして、素敵な旦那さんに幸せにしてもらう」ことだったと思う。

大学に行くことも、田舎で暮らすことも、看護師として働くことも、旦那さんに幸せにしてもらうことも、全部幸せの選択肢だと思う。

 

ただ、私の幸せは違う選択だと大人になって知った。

世界をまるで知らなかったから。

 

今はすでに看護師を辞めて、どうなるか分からない未来を生きているのが心地いい。

 

変化のない日常って、結構メンタルにくることも学んだ。

 

かといって、狂ったみたいに仕事が好きではないことも学んだ。

 

私は他の誰でもないから、「この人がこれで幸せだから、私も同じことをすれば幸せになれる!」なんてことはない。

 

その幸せを試行錯誤して探すことを、生きると言うのかもしれないなんて思った。

 

何でもいいけど。

 

金曜日の夜だけでもいいから、踊っていられればいいな。

今日はUber eatsを頼もうとしたのだけど、お店もメニューも多すぎて、めんどくさくなった。

 

自由なのだから、何を頼んだっていいのに。

「何でも選んでいいよ!」って結構、難易度高かったりする。

 

でも結局何も選べないで終わるのって、1番つまらないよな。

 

なんて思いながら、自分の足でCoCo壱にカレーを買いに行った。

 

それはそれで、また1つの選択肢だったりもする。

 

何が大事なのかは、”自分の意志で選んだかどうか”だ。

 

人生の選択肢だって、きっと同じで。

 

大きな選択って吟味しがちになってしまうけど、結局えいって飛び込んじゃう勇気が1番大事なんだと思ってる。

私の人生においては。

計画性ゼロだから。(ADHDグレーゾーン診断済)

 

「自分の個性を創っていくために、何を頑張ろうか」という議題が自分の中にずっとある。

 

「鉄は熱いうちに打て」は常に念頭に置いてあるから最初の行動まではするのだけど、それに自分の若さを注ぎ込むのってすごく勇気がいるんだよね。

 

んー私にはこれ合わないなーと思って辞めたこといくつもあるけど、辞める決断をする度に恐かった。

 

やってみた分だけ”こっちの道ではない”ってことは分かるけど、また新しい道を探さないといけなくなる。

 

それって結構、きつい。

 

でもそのキツさって、意外と未来の自分にとっては大事だったりするんだよね。

 

悩んであーでもないし、こーでもないかなんて試行錯誤してできていく自分をどうにかこうにかして可愛がっていくのが自分の仕事だったりするんだろう。

 

そうやって私ができていく。

技術とか肩書きとかそういう部分ではなく、目に見えない、基準もルールもない範囲での、自分が。

 

悩みたいのなら悩めばいいし、現状を変えたいのなら変えればいい。

シンプルに。

 

ときめきたいのなら、タフなハート持たないといけないらしい。

 

逆説的に言えば、死ぬこと以外はかすり傷なんだろう。

だから、どんなときだって、踊ってられればいいんだ。

金曜日の夜だけでもいい。

恥をかいてみなきゃ、何も始まらないと気付いてしまったから

いつぶりだろうか、足が微かに震えている。

 

会社の上司に、1ヶ月休職したいことを伝えてきた。

前記事のストーリーの続きである。

 

結果は1ヶ月、お休みを頂くことができた。

休職したいことをを伝えるのって、思っているよりもすごく勇気が必要だ。

 

私が勤めている会社はどベンチャーであるから、かなり忙しい。かなり。

私が1人抜けただけでも、大きな負担が他の人たちにかかってしまう。

 

そんなことを考えてしまっていたから、私は結果的に精神を病んだ。

 

そして突然「大変申し訳ないのですが、仕事ができません・・・」と電話で伝えるという、1番迷惑の掛かる形で会社に行けなくなった。

 

友達に「真面目な人ほど、自分の限界まで追いつめて結局朝に会社に行けなくなってバックレたりするんだよ。一番良くない。」と言われて、「御もっともです・・」としか返せなかった。

 

 

上司には「なんで1人で抱え込んだんだ」と、この会社に勤めて初めて怒られた。

 

「あなたを心配して言っているのではないよ。いや、心配はしているけどね。俺はやっぱり経営者だからさ、会社を守らないといけない。みんなの給料を払っていかないといけないんだ。」と。

 

 

私は胸の痛みと共に、「会社」というものを学ばせてもらっている・・・と痛感した。

 

 

そして今日、休職させてもらいたいことを伝えた。

そしたら、また怒られた。

 

「それはあなた自身から出た言葉には思えない。他人の意見をあたかも自分の意見のように話す人は信用できない。あなたはまだ受け売りの言葉で話している。」と。

 

他者の意見を自分の意見にして話しているつもりはなかったけど、冷静になって考えてみると図星だった。

 

恥をかきたくない、良く思われたいという無意識が言葉の端々に出ていたのだろう。

 

自分自身でも気付かなかった自分の心理の裏を暴かれて、逆に恥をかいてしまった。

 

私はいつからかっこつけてしまう大人になっていたのだろう・・・

そんな自分がショックだった。

 

 

 

 

そういえば2年前にも、同じようなことで大人に怒られたことがあった。

 

 

ネットワークビジネスをしている人に「日本や海外の社会情勢が学べるセミナーがあるの。会員でなくてもお金を払えば参加できるよ。」と誘われたときに、私は参加しようとした。

”ネットワークビジネスは興味ないけど、社会のことは勉強したいから試しに行ってみようかな”と、とりあえずやってみよう精神の私がそんなことを考えた結果である。

 

そして「かくかくしかじかで、誘われたから明日行ってくる!」と何気なく大人に話したら激怒されて、私はトラウマになったという事件がある。

 

その”大人”というのは、当時の恋人であり、私の師匠のような存在の人だったからこそ私には尚更こたえた。

今でも私が悪いことをしたとまでは思っていないが、ネットワークビジネスのそんなに関係性がない人に上手いこと騙されそうになっていたのは事実である。

 

「自分の軸はないけど、何か頑張りたい。」と思っているような若者は、こういう口の上手い大人のカモになってしまうのだ。

 

 

私は24歳にもなって自分軸がないことがすごく恥ずかしかったし、情けなかった。

 

 

そんなことがあってからは何でも自分の頭で考えて、自分の意志で行動してきたつもりでいたのに、25歳の私はまた怒られてしまった。

 

 

なぜ怒られたのだろう。

 

なんとなくワカルけど、分かるようでわからない。

 

これはどういう伏線だろう。

 

 

・・・”もっと自分を生きろ”ということだろうか。

という仮説を立ててみた。

 

 

私は自分に嘘をつくのが嫌いだ。

でも大人になるにつれて頭が良くなってくると、自分自身で納得できる理由を探せてしまうようになった。

 

上司は私のその部分を、見透かしていたのかもしれない。

 

 

私はいつから恥をかかなくなっていたんだろう。

 

 

大学生くらいのときは「残念な女」キャラだったから、恥をかくことも比較的容易であった。

  

 

でも海外へ行って、文章を書き始めてから「文章を読んで勇気が出た」「励まされた」「かっこいい」と言ってくれる人が増えた。

すごく嬉しかったのだけど、今までバカにされていじられるのが当たり前だったから、なんか逆に恥ずかしかった。

 

 

「私は敢えて恥ずかしくて痛いことを叫んでいますよ!うへへ!」というスタンスでロマンチックを吐いていたので、それをそのまま肯定されてしまったものだから困惑したのだ。

 

 

でもそのうち肯定されるのにも慣れてきて、素直にありがとうと言えるようになった。

 

それは良いことなのだけど、いつしか”恥をかく”という大事なイベントを企画するのを忘れていた。

 

 

恥をかくということは、「個」の自分を表現するということだと私は思う。

 

自分以外の他者だったり、”普通”からズレているときに恥をかく。

逆に言えば、自分の個性を他者に向かって表現することだと考えてもいいのではないか。

 

 

だから私は、ロマンチッククリエイターとして考えてみた。

 

「どうやったら恥をかけるだろう。」

 

考える方向性が誤っているかもしれないが、恥をかいたら強制的に自分自身の「個」を自分に見せつけることができるのではないかと思うのだ。

 

それで自分軸がつくられないかもしれないけど、どうにかこうにかつくられていくかもしれない。

 

どうやったら自分軸で生きれるのかなんてわからないけど、とりあえず私は考えるより先に行動して、失敗しながら学んでいくやり方が合っている。

 

だからこれでいいのだ。

 

 

恥をかく方法はすぐに浮かんだ。

 

 

「YouTube」だ。

 

 

YouTubeはずっと避けていたものだ。

 

コミュ力はある方だけど、話すのは苦手。

説明するのが苦手だし、1人で話すのも苦手。

動画に自分だけ映っているのも嫌。笑

 

 

でも恥をかきたいと思ったらすぐに浮かんできちゃったからやってみようと思う。

このADHD気質が騒いでいる間に。