冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを勝手に食べちゃってから始まる、浪漫飛行。

私はもっと自分の生命をエンターテイメントとして楽しみ尽くしたい。

出世だとか結婚だとか、老後がどうだとか、どうでも良くなくなるくらい”今この瞬間”を楽しみたい。

そういう”日本語には存在しない部分の日常”を冒険していたい。

失敗しないように、死なないように生きる人生は嫌だ。

失敗しても笑い飛ばせる生き方をしたいし、死ぬくらい本気になれることを見つけて死んでいきたい。

「昨日はなんであんなに笑ったんだろう?」って思うくらい笑い転げる夜が、いくつも欲しい。

「欠点だらけの相手なのに、なぜか愛してしまった」という恋愛をしてみたいし、自分なんてどうでもよくなるくらい誰かを愛せる恋愛がしてみたい。

2人とも眠れなくて、明け方に1つのカップラーメンを分けて食べて「足りなかったね。」って会話をしたい。

今の私は自己欲求まみれだ。


まぁ、そんな人間も可愛いか。

そうやってゆるく生きたいのなら、自分自身に正論をぶちまかすな。

固定概念で自分を見誤るな、と自分に言い聞かせることは大事だ。

目に見えている現実は、私が創ってきたものであることを忘れちゃいけない。

自分がどんな人間だっていい。

私の中にはポジティブだけど根はネガティブで、パリピだけど陰キャで、バカだけどずる賢い自分もいる。

その事実こそが私的この世界の最も面白いコンテンツとして、優勝してる。

最近気付いたのは、他者は自分と同じではないということ。

当たり前なんだけどさ。

自分が当たり前と思っていることを当たり前と思っている人は、思ってるより少ない。

「これだけはこれが正義!」というものなど存在しない。

そもそも正義なんて、人間社会でしか存在しない。

だから冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを食べちゃったって、宇宙からしたら本当にどうでもいいことだ。

そんな世界の中で、それでも、人間の綺麗な心は死んでも持ち続けていたいのである。


そんなこんなで、湯船に浸かりながらcanvaで作ってみたロック画面がこちら。

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苦しいとき、辛いときに、「”面白くなってきた!”と叫べ!それだけでいい!」というメッセージを入れてみた!

デザインは「不安になったら今目の前にあることだけに全集中しよう。気付いたら夜明けが近づいてたりするもんだ。」という意味を込めて選んでみた!

でもさ、朝起きたらさ、そう覚悟を決めたことさえもすっかり忘れてたんだよね。

人生ってそんなもん。

なので1周まわって、ロック画面はこれに設定した。

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私の直筆です

こうやって後先考えないで、今絶えず私の中に湧き上がってくる感情をつらつらと書くことで、成仏してくれる負の感情があるので文章書いてます。

ここまで長々と書いておいてなんなのだけど、適当に生きる宣言します!!!!

実写版アリエルから”世界をみる角度”をまた1つ教わった話

家族には、私のやりたいことをずっと反対されてきた。

「看護師として安定に働いて、田舎で暮らして早く結婚するのが1番幸せだぞ。」

「東京はこわいところだ。看護師を辞めてよくわからない会社に入るなんて馬鹿げたことをするな。」

と。

確かに家族の言う幸せも、この世にはあると思う。
その考え方を否定するつもりはない。

でも人はそれぞれ価値観が違う。

家族はそういう人生を送るのが幸せだと思うのはわかるけど、私が幸せかどうかは私にしかわからない。


私は”みたことのない世界を冒険したい”という思いが強かった。

だから反対を押し切って上京したし、看護師も辞めた。

色々なリスクも背負ったし、たくさん悩んで傷付きながらここまで生きてきた。

自分で自分を信じられないときもたくさんあった。

だからこそ私は、「陸の世界に憧れるアリエル」と「声を失うかもしれないリスク、元の居場所に戻れなくなるリスクを背負ってでも、人間になれるチャンスを掴みにいくアリエル」にとても共感するのだ。


“アリエルよく聞いてくれ
人間の世界は最低だよ
海の底の生活こそ
どこよりも楽しいんだから”

隣の海藻は 青く見えるさ
陸に行くのは 大きな間違い

まわりを見てごらん この海の底
なんて素敵な世界だ これ以上なにを望む

素晴しい アンダー・ザ・シー
ダーリン 私の言うこと信じて
あっちじゃ働くだけ 朝から晩まで
こっちじゃずっと遊んでラッキー
アンダー・ザ・シー

「アンダー・ザ・シー」より

実家ではこんなことをずっと言われていたので、その歌詞と家族の言葉がとてもリンクする。


陸にはいないわ あんなわからずやは
私は子どもじゃないのよ

「パート・オブ・ユア・ワールド」より

だからこそこの歌詞とそっくりそのまま同じことを思っていた。

ディズニープリンセスって、”まるで私のことを言ってるの?”と思わせる天才だよね。
同じこと思ってる女の子たくさんいると思う。

でもそれで言うと「アンダー・ザ・シー」は嫌な曲になるはずなのだが、あの明るくて誰もが楽しくなっちゃうような音楽になっているのが、今回大人になって改めて映画を観た私の心に刺さりまくった。

(アリエルのお父さんや)セバスチャンにも正義がある。
アリエルが幸せになるのは心から海の世界だと思っているからこそ、ハッピーに海の世界が幸せだよって歌ってるんだよね。

海の世界の良さもわかるし、”隣の芝生は青く見えるさ”の部分も、その通りだと思う。

私の家族もそういうことが言いたかった部分もあるだろう。


学生の頃は田舎が嫌で嫌で仕方なかったからこそ、東京にすごく憧れていた部分もあったので、田舎の良さなんてみようともしなかった。

だから家族が言っている幸せも事実存在しているのだということをわかってはいたけど、改めて大人になって理解できることもあり、私の心はなんかこう…揺さぶられた。


そう、だからこそ今でも自分の選択してきた道が正解か間違いかなんて、わからない。


ただ確実に言えることは”今、とても幸せだ”ということ。

自分の心に素直に生きて、たくさん挑戦して、たくさん失敗して、それでも明日もっと自分を好きになれる、もっと幸せになれるって思って日々を生きている。

挑戦すること、失敗すること、悩むこと、落ち込むこと…これは当たり前にできることではない。

そして頑張って、苦しんだ結果、達成した喜びを感じることも、支えてくれた人の存在の大切さに気付けることも、当たり前ではない。

全部含めてそれができているのって、私にとってはとても幸せなことなのだ。


そしてその28歳の大人が今までしてきた生き方とリンクさせながら感動で涙できる作品を創れる大人を、私はすごく尊敬する。

伝えたいことをそのまま言葉にしても伝わらないことはたくさんあるから、それを映画というエンタメに昇華させると、面白いことに新しい世界観ができ、その分この世に”世界をみる角度”がまた増える。

「リトル・マーメイド」のファンからしたら、冒頭音楽の前奏が流れてきただけで鳥肌がたったなぁ。

ストーリーがわかっていたって泣けるし、なんなら”次はこのシーンだな”って予想できた時点で涙が出てくる。

エンディングでも「アンダー・ザ・シー」が流れるのだが、個人的には最後にあの楽しい音楽が流れてきたことで、再び涙が出てきたくらい心に響いた。

先程書いたように、「アンダー・ザ・シー」は家族の存在とリンクしているように感じるので、最後に曲が流れてきたときに家族の存在を想起したのだ。

人間は矛盾を抱えている生き物だと思う。
人間は矛盾を抱えて生きれる生き物だ。

光があるから闇を知り、闇があるから光を知れる。
矛盾があるから人はより、自分のことを知れるのではないだろうか。


だからこそその矛盾さえも総じて面白がれる人間になれたら、また新しい世界がみえるかなと思った。

あとアリエルとエリックのデートコースは私も死ぬまでに経験したいです。

よろしくお願いします。

嫌なことがあったとき、私はお寿司を食べたくなる。~未来とかはどうでもいい~

いつかのある日、未来とかどうでもよくて、ただただ今この瞬間の絶望に浸りながら歩いたこの道を、今日はとことこ歩いた。

天気が良かったから。

生きていく理由なんてそんなものでいいだろう。

 

嫌なことがあったとき、お寿司を食べたくなる。

お寿司を食べても報われない感情があることを知って、1つまた大人になったと思った。

 

 

嫌なことがあったとき、見たこともない、聞いたこともない国に行きたくなる。

こんな生き様があってもロックだなー、私も何でもどうでもいいことにして生きるぞ!って思えるような気がするから。

「お前、まじかよw」みたいなこと、人生に何回もあるといい。

 

この前友達と飲んでて、早朝に道路で友達が私の靴を意味もなくどこかに放り投げた。

そしたら靴が垣根のどこかに行ってしまったので、靴下で外を歩いた。

 

26歳の女が明け方に一体何をしてるんだろうと冷静にはなったけど、後先考えず靴を投げた友達を好きだったりする。


そういえば一緒に住んでるトルコ人に「How are you?」と挨拶すると、いつも「Good see you!」と返してくれるの嬉しい。

 

 

いつか「See you again.」と次にちゃんと会う決意をしてお別れを言い合う日がくるのだろうか。

それとも「Bye!」って軽く挨拶して、それが最後の会話になったりするのだろうか。

 

大袈裟化もしれないけど、日常生活で、もう会わない人と「またね~!」って言って死ぬまで会わないことなんてざらにあるのだ。

そういう刹那的な、奇跡的な毎日を過ごしてるくせに、いつも夜飲みに出掛ける社長に「お疲れ様でーす。」とぶっきらぼうに言ってしまってる自分もいる。


最近は嫌なことが合ったらビールを飲みたくなるあの感情が表れなくなったのは、なんでだろうね。

今日は1人で、ビール飲んじゃおう。

「ドンキ行かん?」から始まる、日曜日の夜

当たり前のように明日が来る毎日に、焦っていた。

 

「ドンキ行かん?」

日曜日の夕方、廊下でばったり会った彼が提案してきた。

 

「じゃあドンキまで、そこのコンビニでお酒買って1本飲みながら行きましょう!」

「なんでやねん。コンビニにも俺の買いたい緑茶はあるんよ。でもドンキの方がちょっと安くなるからドンキ行こうと思ってるのに、コンビニで買ったら意味ないやん。」

「日曜日は、無駄をする日じゃないですか!」

「確かにそうやな。」

 

思ったより簡単に、説得できてしまった。

 

追加でみほちゃんとしげくんを口説いて、みんなでドンキまで出かけることになった。

わーい、みんなでお出かけ。

 

もちろん、ちゃんとコンビニにもみんなを引き込む。

みんなも「じゃあ飲むか。」と言って、お酒を買った。

普段みんなそんなにお酒飲まない大人なのに、私のわがまま聞いてくれたことが嬉しくて、にまにました。

 

そんでもって私は、角ハイボールを買った。

昨日観たYouTubeで、手越が「体絞ってるから」といって飲んでたお酒が角ハイボールだったから。

 

「かんぱーい!」

コンビニの前で乾杯して、出発した。

いざ、ドンキへ。

 

「うわ、まず。やっぱまずかった。角ハイボール久しく飲んでなかったけど、まずい。」

「そりゃあ、そうだろ。」

みんなジュースみたいなお酒飲みやがって。

 

調子に乗って、強いお酒を選んでしまった。

みんなと飲めるのが嬉しかったから。

 

でもまずいし、度数強いし、歩いてるし、すぐ酔った。

じわじわって、普段は冷え性なのに体の循環が良くなってるのがわかって、気持ちよくて、もっとにまにました。

 

のろのろ歩いたから15分くらいでドンキに到着した。

みんなで好きなように生活品を買って、帰った。

 

そんな日曜日、おばあちゃんになってもしたいなーなんて、帰り道みんなの後ろを歩きながら思った。

 

その夜は、”みんなも、みんなの人生を生きてるんだよなー。”とか当たり前のことを思いながら、

いつもよりちょっとぐっすり寝れた。

 

月曜日が楽しみとまでは思わないけど、「明日からも頑張ろ。うふふ」くらいの気持ちで眠りについた日曜日の人生。

「結婚は、3回くらいしたいと思ってる。」

彼女は真顔で言った。

 

確かに「結婚は1人の人と永遠に」が1番幸せになれるだなんて勝手に思っていたけど、そうでない場合もあるんだろうな。

 

もちろん1人の人と同じ幸せを育むのって、すごく幸せだと思ってる。

 

ただ思ったのは、自分でも知らないうちに決めつけている常識がまだまだ沢山あるなってことだ。

 

厄介なのが、自分でもそれを今まで生きてきた環境で自然にすり込まれた常識なのだと気付いていないことだ。

 

知らないうちにすり込まれた常識で、自分の幸せを決めてしまっているのが恐い。

 

だから私は色んな人にあって、色んな生き方を知って、自分の幸せを選択していきたい。

 

田舎で生まれたけど、ずっと村から出なかったら、自分の幸せは「大学に行って、看護師になって、それなりに旅行をして、素敵な旦那さんに幸せにしてもらう」ことだったと思う。

大学に行くことも、田舎で暮らすことも、看護師として働くことも、旦那さんに幸せにしてもらうことも、全部幸せの選択肢だと思う。

 

ただ、私の幸せは違う選択だと大人になって知った。

世界をまるで知らなかったから。

 

今はすでに看護師を辞めて、どうなるか分からない未来を生きているのが心地いい。

 

変化のない日常って、結構メンタルにくることも学んだ。

 

かといって、狂ったみたいに仕事が好きではないことも学んだ。

 

私は他の誰でもないから、「この人がこれで幸せだから、私も同じことをすれば幸せになれる!」なんてことはない。

 

その幸せを試行錯誤して探すことを、生きると言うのかもしれないなんて思った。

 

何でもいいけど。

 

人生は回収しない伏線をつくったもんがちなんだと魅せられた話

「ありがとうございました。西野亮廣でした。」

えんとつ町のプぺルのエンドロールの最後に副音声の西野さんがそう言った。

 

その何でもない一言がかっこよすぎて泣いた。

心が泣いた。

 

その一言だけで、”西野亮廣”を魅せつけられたからだ。

 

言葉や声に、その人の生き方が表れるのだということを、体感させられてしまった。

 

 

と同時に、”悔しい”と思った。

 

こんな遊び方ができる大人になりたい!と、思ってしまった。

 

 

でも履き間違えてはいけないのは、「西野亮廣」を目指してはいけないということだ。

 

同じ人は誰一人いないのだから、同じやり方で生きたとしても必ず苦しくなる。

 

 

西野さん本人も話していたけど、誰かの背中を追っても、その人を超すことはできない。

どうしたって、私みたいな人は人と比べてしまうしね。

 

だから私は「自分を生きる」ということを、とことん追求することが1番幸せへの近道だという結論に至っている。

 

 

感動して涙が出てきたのは、忘れていた大事な何かに気付かされたからだ。

そんな大人が周りの席にもたくさんいた。

そんなシンプルな生き方のはずなのにできなくなっている大人だから、心を揺さぶられてしまったのだ。

心を揺さぶってほしい人は、観に行くべき!

 

 

 

自分を生きるためには、色んな人や経験と出会って、自分がワクワクすることだったり好きなことを情報収集する必要がある。

 

私は大学生くらいまでずっと、やれと言われたことだけをやればいいと思って生きてきた人間だから、好きなことをして生きていくという概念がそもそもなかった。

  

 

だから私みたいな人は特に情報収集が1番大事なんじゃないかって思う。

 

ちょっと自分の世界の外に勇気を出して踏み出してみると、びっくりする生き方の人ってたくさんいて面白い。

 

西野さんもすごすぎる人だけど、同じ人間だって考えたら、私もこんなかっこいい人になりたいなってシンプルに感銘を受ければいいのだ。

 

昔の自分は、「西野さんだからできたんだ。自分なんかできるはずない。」なんて最初から感銘を受けることさえ無意識に恐がっていた。

だって自分がそんなすごい人を目指すなんて無謀なことで、苦しむことくらい最初から分かってしまうから。

 

 

 

でも25年間生きてきて思うのは、「この人みたいになりたい!」って感じるのなら自分はそうなれる素質があるということだ。

 

憧れの人になるのは無理だけど、「なぜその人になりたいと感じるのか」「その人のどういう部分に憧れているのか」を噛み砕いて考えてみる。

それをどんどん集めていくと、自分の憧れやワクワク、好きなことが集まって、オリジナルの「自分」ができていく。

 

と思ったら、私はすごくワクワクした。

 

 

そこに辛いこととか悲しいことも合わさってできていく自分だから、素敵じゃん。

愛おしいじゃん、と思ってます。

 

 

 

そしてえんとつ町のプペルは冒頭でも書いたように、2回目は副音声で観たのだけど、1回観ただけでは気付かなかったことを西野さんがたくさん喋ってくれている。笑

 

とりあえず伏線がすごくて。

 

 

 

「回収しない伏線をたくさん作っておくと、後から使えるのでよい。必要ないなら使わなければいい話。」ということを話していた。

 

 

「なるほど、それなら人生も伏線をつくったもん勝ちだな」と思った。

 

 

 

私は何かをずっと続けてきたという経験がない。

小学校のときはミニバスケット、エレクトーン、そろばん。

中学はソフトテニス部で、高校は3か月だけ書道部でその後は帰宅部。

大学はダンスサークル。

 

大学4年間看護を学んで、1年手術室看護師として働いた。

(ちなみに病棟は学校で学んだことの延長線上で応用であるのに対して手術室は全く違う世界なので、0から勉強することの方が多かった。)

 

その後エキストラやレストランでアルバイトをして、オーストラリアへ飛んだ。

英語が勉強したかったわけではないし、将来海外に関わる仕事がしたかったわけでもない。

ただの勢いとノリ。

 

帰国してからはベンチャー企業で構造計算のデータベース化の仕事をした。

構造計算は建築系のITの分野で、数学や物理を使ってエクセルで建物の安全性を確認するための入力するお仕事である。

ちなみに私は理数系ではないし、物理がめちゃくちゃ苦手だ。

でもベンチャー企業でOLをしてみたかったし、やりたいことも明確でなかったからとりあえずやってみようというノリで就職した。

 

 

こんな人生だからてんで経験が繋がっていない。

ステップアップ的なことがない。

 

でもその生き方が良かったのかわるかったのかは、今私が幸せであるということが示していると思うのだ。

 

 

私は今やりたいことやワクワクすること、好きなことが昔の自分とは全然変わっている。

全然繋がりのない経験をしてきたようで、今の私がずっと変化しているのなら、それはちゃんと繋がっているんだって思う。

 

自分が進化しているってことだから!

 

こんな私でもずっと変わらないのは、「幸せになりたい」と思っているということ。

  

 

その結果今が幸せであるのなら、繋がっていないように思える人生でも、ちゃんと繋がっているってことでしょ!

 

 

まだ回収してない伏線の方が多いけど、実際引き出しの多い大人というのは、回収しない伏線をたくさん持っている人だと思う。

個人的に引き出しの多い人は、めちゃめちゃ魅力があると思っている。

 

全然関係のないと思っていた伏線が繋がるときの瞬間は、ゾクゾクするので楽しい。

 

 

だから回収しないかもしれない伏線は、自分が好きなものややりたいことがあるだけ作っといた方がいいと思ったのだ。

 

 

 

 

自分がやってきたことは純粋な理由でなくても、必ずやろうと思った理由がある。

 

 

それも1つの自分だ。

 

 

看護師は真っ当な理由でなったわけではないし、なんなら看護学科に入る前から看護師になりたくなかった。

 

 

でも今は「予防医学」に興味がある。

自分でも驚くけど、意外なところで伏線を回収できたりする。

 

 

自分でも予想できない分、面白いよね。

 

だからこれからはやりたいことは何でもやってみることにする。

やり遂げなくてもいいから、まずはやってみるの!

 

 

そして自分の人生のエンドロールが終わる時に、色-んな伏線を思い返して「うふふ」ってにやけながら幕を閉じたいな。

恥をかいてみなきゃ、何も始まらないと気付いてしまったから

いつぶりだろうか、足が微かに震えている。

 

会社の上司に、1ヶ月休職したいことを伝えてきた。

前記事のストーリーの続きである。

 

結果は1ヶ月、お休みを頂くことができた。

休職したいことをを伝えるのって、思っているよりもすごく勇気が必要だ。

 

私が勤めている会社はどベンチャーであるから、かなり忙しい。かなり。

私が1人抜けただけでも、大きな負担が他の人たちにかかってしまう。

 

そんなことを考えてしまっていたから、私は結果的に精神を病んだ。

 

そして突然「大変申し訳ないのですが、仕事ができません・・・」と電話で伝えるという、1番迷惑の掛かる形で会社に行けなくなった。

 

友達に「真面目な人ほど、自分の限界まで追いつめて結局朝に会社に行けなくなってバックレたりするんだよ。一番良くない。」と言われて、「御もっともです・・」としか返せなかった。

 

 

上司には「なんで1人で抱え込んだんだ」と、この会社に勤めて初めて怒られた。

 

「あなたを心配して言っているのではないよ。いや、心配はしているけどね。俺はやっぱり経営者だからさ、会社を守らないといけない。みんなの給料を払っていかないといけないんだ。」と。

 

 

私は胸の痛みと共に、「会社」というものを学ばせてもらっている・・・と痛感した。

 

 

そして今日、休職させてもらいたいことを伝えた。

そしたら、また怒られた。

 

「それはあなた自身から出た言葉には思えない。他人の意見をあたかも自分の意見のように話す人は信用できない。あなたはまだ受け売りの言葉で話している。」と。

 

他者の意見を自分の意見にして話しているつもりはなかったけど、冷静になって考えてみると図星だった。

 

恥をかきたくない、良く思われたいという無意識が言葉の端々に出ていたのだろう。

 

自分自身でも気付かなかった自分の心理の裏を暴かれて、逆に恥をかいてしまった。

 

私はいつからかっこつけてしまう大人になっていたのだろう・・・

そんな自分がショックだった。

 

 

 

 

そういえば2年前にも、同じようなことで大人に怒られたことがあった。

 

 

ネットワークビジネスをしている人に「日本や海外の社会情勢が学べるセミナーがあるの。会員でなくてもお金を払えば参加できるよ。」と誘われたときに、私は参加しようとした。

”ネットワークビジネスは興味ないけど、社会のことは勉強したいから試しに行ってみようかな”と、とりあえずやってみよう精神の私がそんなことを考えた結果である。

 

そして「かくかくしかじかで、誘われたから明日行ってくる!」と何気なく大人に話したら激怒されて、私はトラウマになったという事件がある。

 

その”大人”というのは、当時の恋人であり、私の師匠のような存在の人だったからこそ私には尚更こたえた。

今でも私が悪いことをしたとまでは思っていないが、ネットワークビジネスのそんなに関係性がない人に上手いこと騙されそうになっていたのは事実である。

 

「自分の軸はないけど、何か頑張りたい。」と思っているような若者は、こういう口の上手い大人のカモになってしまうのだ。

 

 

私は24歳にもなって自分軸がないことがすごく恥ずかしかったし、情けなかった。

 

 

そんなことがあってからは何でも自分の頭で考えて、自分の意志で行動してきたつもりでいたのに、25歳の私はまた怒られてしまった。

 

 

なぜ怒られたのだろう。

 

なんとなくワカルけど、分かるようでわからない。

 

これはどういう伏線だろう。

 

 

・・・”もっと自分を生きろ”ということだろうか。

という仮説を立ててみた。

 

 

私は自分に嘘をつくのが嫌いだ。

でも大人になるにつれて頭が良くなってくると、自分自身で納得できる理由を探せてしまうようになった。

 

上司は私のその部分を、見透かしていたのかもしれない。

 

 

私はいつから恥をかかなくなっていたんだろう。

 

 

大学生くらいのときは「残念な女」キャラだったから、恥をかくことも比較的容易であった。

  

 

でも海外へ行って、文章を書き始めてから「文章を読んで勇気が出た」「励まされた」「かっこいい」と言ってくれる人が増えた。

すごく嬉しかったのだけど、今までバカにされていじられるのが当たり前だったから、なんか逆に恥ずかしかった。

 

 

「私は敢えて恥ずかしくて痛いことを叫んでいますよ!うへへ!」というスタンスでロマンチックを吐いていたので、それをそのまま肯定されてしまったものだから困惑したのだ。

 

 

でもそのうち肯定されるのにも慣れてきて、素直にありがとうと言えるようになった。

 

それは良いことなのだけど、いつしか”恥をかく”という大事なイベントを企画するのを忘れていた。

 

 

恥をかくということは、「個」の自分を表現するということだと私は思う。

 

自分以外の他者だったり、”普通”からズレているときに恥をかく。

逆に言えば、自分の個性を他者に向かって表現することだと考えてもいいのではないか。

 

 

だから私は、ロマンチッククリエイターとして考えてみた。

 

「どうやったら恥をかけるだろう。」

 

考える方向性が誤っているかもしれないが、恥をかいたら強制的に自分自身の「個」を自分に見せつけることができるのではないかと思うのだ。

 

それで自分軸がつくられないかもしれないけど、どうにかこうにかつくられていくかもしれない。

 

どうやったら自分軸で生きれるのかなんてわからないけど、とりあえず私は考えるより先に行動して、失敗しながら学んでいくやり方が合っている。

 

だからこれでいいのだ。

 

 

恥をかく方法はすぐに浮かんだ。

 

 

「YouTube」だ。

 

 

YouTubeはずっと避けていたものだ。

 

コミュ力はある方だけど、話すのは苦手。

説明するのが苦手だし、1人で話すのも苦手。

動画に自分だけ映っているのも嫌。笑

 

 

でも恥をかきたいと思ったらすぐに浮かんできちゃったからやってみようと思う。

このADHD気質が騒いでいる間に。

 

 

 

 

弱い自分にもらった産物をギュって抱きしめながら、また初めてのおつかいに出掛けてみるのもいい。

今は何もしたくない。

働きたくないし、やりたいことを探す気も起きない。

ごはんは美味しいものを食べたい。

 

 

だったら何もしなければいい。

働かなければいいし、やりたいことを探す必要もない。

ごはんも美味しいものを食べればいい。

 

私の今年の目標は「お気分屋さんになる」だ。

始めの一歩を踏み出そう。

 

 

仕事を辞めようか、お給料は減るけど仕事量を減らしてもらって働き続けながら傍らでやりたいことをしようか、今日は運命が決まる日だ。

(どっちにしろ以前の働き方とは変えてもらうつもりだ。)

 

これから会社の上の人と話をしてくる。

 

 

1週間猶予をもらって心を休ませてもらった。

 

幸い周りの人に支えられて、気分を病むことはなかった。

でも何もこの先のことを考えたくなかったから、考えてない。

 

毎日仕事に追われていた日常から1歩逸れただけで、ゆっくりと時間が流れる世界が目の前に広がっていた。

 

 

「自分は何がしたいのだろうか。」

何かしたいことがないと、つまらない人生になっていくような感覚に陥る。

  

自分の余命を決めたら、もうちょっとシンプルに考えられるようになるだろうか。

 

今やりたくないことを、排除できるだろうか。

 

  

私の中ではっきりしているのは、世間の幸せを自分の幸せと勘違いしたくないということ。

 

マイホームやマイカーはいらない。

偉い役職もいらない。

 

私の幸せは結局、大切な人たちと一緒にいることだなと思う。

 

 

何かをやり続けた結果何かを得るという経験はしたいけど、仕事が続かなくてすぐに辞めてしまってもいいよね。

思った通りにストーリーが進まないのが、人生だったりする。

 

辛くて号泣して味わうしょっぱさとか、小さい頃からなんとなく聴いていた音楽にまさかで救われたときの感動とかさ。

だれも結末を知らないからこそ味わえる辛さだし、そうやって自分自身で演出していくストーリーだから面白いのだ。

  

やりたくないことを我慢し続ける自分はもう卒業したのだから、自分の中にある今までで作り上げられた”常識”の部分に「お前は何でそんなに弱いんだ」って言われても聞こえない振りをすればいいね。

  

弱い自分万歳だ。

 

弱い自分で生きると決めて生まれてきたのだ。

弱い自分からもらった産物をギュって抱きしめながら、また初めてのおつかいに出掛けてみるのもいい。

 

 

正直、これから会社の人と話をしに行くのが恐い。

 

でもワクワクしたいな。

 

ワクワクしたいなら、ワクワクすればいっか。

 

 

本当は、それくらいシンプルでいいのだ。

 

なぜかできない理由を考えるのが得意で、しかも自分自身も気付かないくらい無意識に自分に対してネガティブな言葉を投げつけてしまっているらしい。

いじめはよくない。

 

でもいっそ小さく死んでしまうのは、いいかもしれない。

次の章を迎えるのにおいしい展開にしていくか否かは、私の演出にかかっているよ。