多動性、衝動性によって生成されたロマンチッククリエイターの見解

ADHDだからかもしれない。

書くことが、心地良いのは。

ベッドに入って2時間くらい眠りにつけないのは日常で、瞑想もできない。

鬱な気分になることも、結構ある。

そんなメンヘラな自分を、未だに完全に好きになれないでいるのも事実である。

 

 

最近気付いたことがある。

何故私は文章を書くんだろうって考えてみたときに、実は「心のデトックス」をしていたんだということ。

 

日常でよくモヤモヤを感じるとき、どうすればいいかって調べると瞑想って出てくるでしょ?

 

だからやってみるのだけど、私は本当に瞑想ができない。

無になれない。

 

とっても瞑想したいから本気で何度もトライするのだけど、気付かないうちに数分で違うことを考えている自分に気付く。

自分でもこわいくらいに。

 

だって無になるのって、つまらないんだもん。

楽しいこと考えたいじゃん。

 

だから文章は自分に合った、心のデトックスの手段なのである。

自分のペースで、視覚的に見えるように自分のモヤモヤを文章にすることによって、その思いが浄化される感覚。

 

 

普段の何気ない時間に、自分の思考を客観的に観察してみたのだけど、めちゃめちゃ色んなことを感じたり考えたりしていた。

意外としないよね、自分の絶えず垂れ流しにしている感情だったり、思考だったりを改めて認識するという行為って。

 

だから夜も眠れないんだと思う。

グレーテスト・ショーマンの「A Million Dreams」の歌詞にめちゃくちゃ共感するもん。

 

毎晩ベッドに入ると

鮮やかな色彩で頭の中がいっぱいになる

無数の夢で目がさめちゃうんだ
 

僕が描いた世界は実現すると思う

無数の夢は叶えるためにあるから

無数の夢は世界を創るためにあるから

 

って。笑

 

未来を想像してにやにやしながら眠る日もあるし、自分の中にある闇の部分が広がって苦しくなる日もある。

寝るのが上手い人って、よく考えたらベッドでのこの妄想の時間ってないんだなって今気付いた。

 

小学生くらいのときは、好きな人と仲良くなる妄想を毎日してたなー。

現在は1mmたりとも恋愛の妄想とかできなくなってしまったのだけど、それってどうなのだろう。なんて思ったり。

 

 

ADHDの症状として、実際に入眠困難、睡眠の中断等がある。

そして日中は眠気の症状が強く出る。

 

私はまさにこれだった。

 

小学生の頃は毎日ベッドに入ってから2、3時間は眠れなかった。

 

大学の授業なんて、はりきっていつも1番前に座って真剣に聴いているのに、いつの間にか眠っている。

授業が終わって目覚めると、あーまた眠ってしまった…って嘆いてた。

先生からしたら、1番前に座っておいて堂々と寝る私のメンタルが理解できなかったかもしれない。

 

 

でも大人になってADHDグレーゾーンの診断をされて、改めて症状を調べたら殆どのことに当てはまった。

 

私はすぐ大事なことを忘れるから、何かやらなければいけないことができたらすぐにアラームを設定する。

これって小学生の頃保健委員会の当番の仕事を忘れて、クラスの男子に「お前、悪い子じゃん」みたいに言われたのがすごくショックだったトラウマがきっかけだと思う。(その台詞、改めて文字にするとなんか、あれだな…)

 

自分の携帯を持ってからは、アラームのメモに内容を書いて、思い出さなきゃいけない時間にアラームを設定して対策をするのが当たり前になった。

だから今でも夕方とかにアラーム鳴ったりするから、「え、なんでこの時間まで寝てるつもりだったの?」とかよく聞かれる。

 

精神科の先生は、上手く対策してきたんですねと言ってくれたのだけど、あーそういうことかと思った。

ADHDでなくても人間だから忘れることってあるけど、おめでたいことに、私は普通の人よりADHDの対策してるから大事なことを忘れないっていう長所ができた。

 

自分が人と違うことで自分を責めていた頃の自分に教えてあげたい。

 

お前それ、すごいもん持ってるじゃん!って。笑

 

人よりよく怒られるし、集中力がないから何かをやり遂げる能力も劣っていた。

そんなの人間社会のルールで言えば落ちこぼれなのだけど、大人になって思うのは、落ちこぼれは落ちこぼれなりの長所ができる。

そもそも「落ちこぼれ」なんて言葉は社会の中では使えるけど、地球的に言えば意味を成さない用語である。

 

仕事ができない人の気持ちが理解できるから、「なんでこんなこともできないの?」と正直思ってしまったとしても「ここで感情のまま伝えたって、それはかっこわるい上司と同じだ。」って踏みとどまれたことができたことがある。

 

よく怒られるから、怒られる度に悩んだし、でも悩んでるだけでは生きてなんていられないから、思考で前向きに考えられる能力も後天的に身に付けることができた。

それは最初からポジティブな人とは、また異なった長所だ。

ネガティブからのポジティブという”幅”を知っているのは、強いと思ってる。

 

人とは違う視点で物事を考えるきっかけが与えられているわけです。

それでいて、人とは違うことに気付けるようになる。強くね?

 

そもそも私のADHDに対する見解は、いわゆる”普通の人”よりも人間らしいのではないかってこと。

ちなみに忘れてはならないけど、私元看護師だからね。笑

一応、大学で精神疾患勉強してるの!

 

好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」

思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」

これらのADHDの特徴って、言い換えれば「自分の心に素直に生きてる」という長所を持っているということでしょ?

 

不注意さや物忘れも、あくまで社会の中で必要な能力であって、その能力が低いからといってその人自身の魅力は失われない。

 

むしろ私は自分の好きなことを素直にやっている人や、思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう人の方が好みだ。

長所とか短所とか、結局どの視点で、どの基準で決められてるのかって話。

 

いわゆる”できる系”の人だったら、こんなこと考えもしないわけである。

私はそんなできる系の人と真っ向勝負したっ勝ち目はごく僅かなわけで、戦略立てて挑むか、違う土俵で、違う視点で生きるのが性に合っていることも知っている。

 

そうやって色んな個性の人が、色んな出来事に揉まれながらも、最終的にその経験が自分の居場所を見つけることに繋がっていくのだと思うと世の中上手くできてるよなーと思う。

 

ADHDなんて、そもそも人間を統一するために不都合な能力を”病気”として捉えているだけの話だと、私は思っている。

 

だから、誇る。

自分が田舎に生まれた理由は、意外とロマンチックかもしれない話

「アメリカ文化」というものはないらしい。

地域によって違うし、地域の中でも個人によって違うからだ。

 

日本においてはどうだろう。

やっぱり真面目だけどシャイで、自信もないイメージがあるし実際海外と比べるとしたら日本人の気質ってそういう部分にあるだろう。

あと、人生を楽しんでいるように見える人も比較的少ないように思う。

 

あくまで私の立場での個人的な意見であるし、日本人を否定したいわけではない。

むしろ私は日本人が、普通の日本人よりは好きだと思う。

 

私がメルボルンで過ごしていた時、オーストラリアって移民の国だから、誰がオーストラリア人なのか分からないレベルで色んな人種の人たちが生活していた。

偏見が含まれている部分もあるのかもしれないけど、私が出会った人たちはやはり国ごとに人の性格だったり価値観だったり似ている部分があったのは確かだった。

 

 

友達になった中国人に疑問を抱いて、ふとこんなことを聞いたことがある。

「なんで君は、あんまり笑顔にならないの?中国人の人たちってみんなシリアスな表情してない?」って。

なんで中国人の友達に聞いたかというと、私のバイト先の中国人の人たちも全然私に笑ってくれなかったからだ。

 

これはあくまで私の友達の中国人の人が言っていたことなのだけど、中国の文化って親密な関係にならないとあまり笑顔を見せないらしい。

笑顔を見せないという表現は合っていないような気もするけど。

愛想がない感じ!

 

でも1度仲良くなるとすごく心を開くし、信頼性激つよなんだそう。

実際、最初は恐い表情しか見せてくれなかったその中国人の人たちも、関係性ができてくるに従って笑顔を見せてくれることが増えた。

結構、嬉しかった。

 

 

なんてこともあったし、私はラテン系の友達がたくさんいたのだけど、週末は毎回20人くらい友達を集めて、ビーチでBBQをして飲みながら踊り明かすことがよくあった。

 

ダンスが好きな人たちが集まっているのもあるだろうけど、やっぱり日本人とノリが違うなぁと感じた。

私はダンスが好きだからよく友達に踊ろ!っていうのだけど、なかなか日本人で踊ってくれる人っていなかったりする。

日常に踊る文化がないもんね。

 

 

何が言いたいのかというと、人間って環境に大きく左右されるんだなってこと。

 

例で挙げたのは国という環境だけれど、地域、家族、学校、貧富、気候…全ての環境においてそれが言える。

 

自分が好きな食べ物やファッション、やりたい仕事、好きな人…全部自分で選んでいるようで、実はほとんどが「”今までの自分が育った環境によってつくられた自分”に選ばされている」のではないかなって思う。

 

大学生の頃、新潟県民は背油ラーメンが大好きだけど、山形県民の友達らは「あっさりラーメン以外、ラーメンじゃない!」と言われて衝撃だった。

あっさりラーメンも美味しいけど、背油ラーメンがラーメンじゃないなんて、どう育ったらそんな嗜好になるんだ!!って。

 

日本の食べ物大好きマンだけど、海外の人の意見を聞くと「寿司美味しいよね!」とは言われるけど、自分が思っている以上に評価は低い。

やっぱりみんなそれぞれ、故郷の味が1番だという人ばかりだ。

 

大学のゼミで「人間は脳で食べている」というテーマについて研究したのだけど、まさにそれだと思ってる。

故郷の味、つまり慣れ親しんだ「思い出の味」が無敵なのだ。

 

 

ファッションも田舎にいた時だったら絶対しなかったようなファッションを東京で着ているし、自分が進路を考えるときに選択肢が看護師や公務員くらいしか頭になかった。

図書館にある「職業図鑑」的なものでしか、調べる方法が思いつかなかった。

 

「外の世界を知ろうとしなかった自分がわるいよ。」と言われるのだけど、”外の世界がある”だなんて知らなかったんだもん。

知っていたら「どうやって調べればわかるかな?」と考えられるけど、そもそもその存在を知ることがなければ調べようがないでしょ?

 

小さい頃からお母さんにずっと「看護師はいいよ」と洗脳のように言われて育ったことが、私が看護師になった理由において大きな割合を占めている。

ちなみに医療現場での医療ミスも、「ミスは、ミスした人のせいではなく、環境に問題がある」という考え方で改善策を考える。

経済学でも、そんな考え方あるよね。

 

 

上手くいかないことを、環境のせいにしたいわけではない。

その環境に生まれたからといって、後悔があるわけでもない。

全部を含めて今の自分があるわけだから。

 

今の大好きな人たちと出会えたのも、私が生まれた環境、育った環境、今までしてきた自分自身の選択、全てのおかげだ。

  

小さい頃の家庭環境は私にとって最悪だったけど、あの人生で1番辛かった小学生時代が、今の私の基盤となる価値観をつくっている。

 

自分の居場所があるだけで幸せだと思えるし、「明日を生きたくない」と思わなくていい日常にすごく感謝ができる。

こういうことを、綺麗事だと思う人にならずに済んだ。

  

今好きな人を「好きだ」と思えるのは、今まで生きてきた環境のおかげでもあるとさえ思う。

 

なんならそもそもこの環境で生まれたのって、その人と出逢うために、生まれてくる前の自分が仕組んだ環境なのかもしれないなんて思ったりもする。

「え、小さい頃から○○が好きなの?偶然だね、私も!!」ってなって運命感じてしまうのって、人間のロマンチックな性質ではないだろうか。

追記:セーラームーンは、前世で戦争によって幸せになれなかったセーラームーン(月のお姫 様)とタキシード仮面(地球の王子)があまりにも可哀想だと思い、セーラームーンのお母さんが2人を同じ時代の地球に転生させたのである。2人は偶然道端で会って、お互い初めて会ったのに、何故か知っているような感覚を覚えて惹かれ合っていくストーリーである。

 

このロマンチック、お分かりいただけただろうか。

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。お酒は飲まなかった。

真っ暗な世界をみたことがあるから、明るい世界に”色”があることに感動する。

だから、落ち込んだ日常も嫌いじゃない。

 

何故か今日は、会社帰りの電車に揺られながら涙が溢れてきた。

鬱とか、そういう類の涙ではない感じはした。

女の子の日は、もう過ぎたんだけどな。

 

確かに心がなんとなく曇っているような気もするし、人間だから数えてみれば心がちょっとブルーになる出来事もいくつかある。

 

電車で泣いたことは何回もあるなー。

私って泣き虫なんだなー。

遠くにいる好きな人に会いに行って、夜行バスで帰るシーンでは何回泣いたんだろう。

 

なんて、さすがに家に帰るまで号泣しないように、今この瞬間から意識をそらした。

 

本当は外に走りに行きたかったけれど、この目に見えない悲しみに浸りたかった。

気分が落ち込んでいるときは、とことん浸るのもいい。

 

だから家に帰って気が済むまで泣いてから、Netflixでいつもはあまり観ない邦画のジャンルで今の自分に寄り添ってくれる作品を探した。

感動で泣いた。

 

友達に電話したけど、出なかった。

そういう日か。

 

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。

お酒は飲まなかった。

 

明日は、金曜日だ。

つまらないをネタに、1杯どうですか。

本日、もやもやな感情が生まれた。

  

人は数えきれないくらいの感情を、垂れ流しにして生きている。

自分から生まれた名前のない感情たちが、私の日常をバラエティ豊かにしてくれている。

 

でも私は、「楽しい」や「ハッピー」のような感情ばかりを認め、自分の中の違和感は見て見ぬ振りをして大人になるまで生きてきた。

 

でも楽しいやハッピーはもちろん、もやもやした感情もまた、大切。

もやもやは、自分が進みたい方向のヒントを教えてくれる存在だからだ。

  

だから今日、その取り留めのない感情をキャッチできた自分は成長したのだなと思い、ちょっと嬉しかった。

  

というのは前置きです。

 

 

 

もやもやの感情が誕生したのは、初めて参加した読書会だった。

 

人に誘われて、どういう会なのか興味もあったので試しに参加してみようと思って。

読んだ本を紹介して、それについてみんなで色々話したりするという会だ。

 

参加している人たちは色んな方がいて、多分人生に対して真剣に考えて今を変えたいと思っている人たちな感じがした。

なんか意識が高かった。

 

みんなビジネス書を紹介していて、「こういう部分に感銘を受けたから自分はこれからこうしていきたい」のようなことを話していた。

 

 

 

んー、私は正直つまらなかった。

なんか、もやもやしていた。

 

 

ビジネスとか社会のことととか、働き方とか、そういうことにはちゃんと興味はある。

だけどビジネス書の紹介を聴いていて、その内容を自分の言葉に置き換えて書いてあることをそのまま話しているだけのように感じてしまった。もやもや

 

  

そんなもやもやが生まれた理由を考えてみた結果、私が期待していたのは「その先」だったということが判明した。

 

現在のこの世の中に生きている大人はどういう本を読んで、どういうことを感じて、”どういう意見を持つのだろう”という部分に興味があった。

 

であるのに、その本がどういう本なのかはなんとなく分かっても、紹介している人がどういう価値観を持っていてどういう考え方をするのかということが私にはわからなかった。

そしてそれを聴いた他の人たちに対して意見をして、みんなで考えてそこに生まれる”新しい何か”を私は楽しみにしていたんだなぁと振り返って気付いた。

 

あくまで私の興味についての話であるから、その読書会や参加している人たちを否定しているわけではない。

 

 

小説だったら人によって感じ方や捉え方が違うから、私が期待しているような読書会になるハードルはきっともっと低いと思う。

物語って感情が動きやすいものであるから、人それぞれで全然違う部分がグッときたり、同じ部分でも響いた理由が違ったりする。

だから、読書会であーだこーだ言うの楽しそうだなと思って。

 

 

でも参加者の人たちが紹介していた本は、ビジネス書だ。

ビジネス書は小説と違って「情報」が書かれているから、どこの部分が刺さったかというのは人それぞれ違うとは思うけど、その先の先まで発展させて会話をしないとただの情報交換になってしまう。

 

それではわざわざコミュニティで人と関わって行う価値というものが薄くなる。

それなら自分自身で実際にパラパラって本をめくってみたり、口コミを読んでみたりすればいいのではないか?というのが私の意見である。

 

私はどうせ人と集まって話をするのなら、そこでしか生まれない何かを発生させて持ち帰りたい。

 

 

人間性と人間性、価値観と価値観、人生と人生が同じ本を読んで何を感じて、どう考えるのかをみんなで伝え合い、発展させて生まれたものにこそAIにはできない価値が生まれるのだと思う。

それが私的に、ロマンチックなのだ。

 

でもこの読書会に参加して、将来読書会ではないけど違う分野でコミュニティもつくりたいと考えていたから、自分の価値観が浮き彫りになって自分自身をもっと知れた。

 

 

ちなみに私は益田ミリさんの「今日の人生」というエッセイ漫画を紹介したよ。

筆者の日常がシンプルな漫画で描かれていて、オチもないくらいのシンプルな作品だ。

シンプルに表現されている本当に何気ない、リアルな筆者の日常を読んでいると、普段自分の中ではスルーしてしまっているふとした瞬間に思うこととか、素直な私らしい感情だったり、そういう目に見えない大切なことを気付かせてもらえる作品である。

 

私以外の人がビジネス書を紹介している中きっと場違いだったんだろうなとは思うけど、個人的に思ったのは私のターンが1番色んな人の意見が飛び交っていたし、意見している人の人生が垣間見えたし、話がどんどん発展していってたと思うんだ。

その読書会のコミュニティに対する目的が私とは違うから、それが良いとかわるいとかそういう話ではなく、私の嗜好の観点からの話でね。

 

 

私は最近、自分の枠をもっと広げたい欲がたくさん出てきた。

 

なぜなら私の意見に人生が垣間見えたとして、その人生にもっと面白さが足りないと思うからだ。

という面白くない理由で、私は人生をもっとシャカシャカしたい。

 

もっと論理的なお花畑脳内になりたい。

もっともっと自分の世界観をワイドにしたいし、4D化したいし、文明開化したい。

それでいて、星見上げたい。

 

と思ったのでつまらないをネタに、1杯飲みませんか。