死にたい私は、今日も楽しそうに生きる。

絶賛今の私は、”死にたい人”に分類される。

でも、物理的に死にたいわけではない。

人間として”死ぬ”という感覚を自分に突きつけたいだけだ。

死にたいという気持ちは、真剣に生きることに向き合っているからこそ感じれる最上級の大人の嗜みだという人がいる。

皮肉にも、私はそんな世界が好きだと思う。

明日、死んでもいいかも。
明日、死にたくない。

そんな狭間で生きている人間の人生はどれくらいの価値があるだろう。

私は今まで散々と色んな角度の世界を見てきたけど、多分肝心な何かを見ていない。

この文章を書いている私は、”わたし”ではない気もしているし。

でも本当は、絶望が好きだったりするのかもしれない。

絶望するたびに、「もうどうなってもいいから好きに生きよう」と考え、「はい、ここまで第1章ね!」と開き直れるので。

そんな状況で、「人間は怠惰だから、何もしないと土にかえっていくんだ。だから秩序を持って能動的に行動することが大事なんだよ。」と、言われた。

変に、腑に落ちてしまった。
恋にも落ちたかったな。

最近は自分の部屋のベッドに寝転びながら、窓から見える青空を眺めていることが趣味になった。

私たちは、自由における恐ろしさを甘くみている。

人とのコミュニケーションってどうするんだっけ?という、ある種のゲシュタルト崩壊が起きるほどに。

地球にいる人間のうち、半分は宇宙人なのかもしれないという浅はかな期待を抱いてみたりもする。

最近、会社の上司に言われた。
「マジで小川さん宇宙人!」

いえ、私は小川(ちいかわ)です。

久方ぶりの世紀末。

いや、今日は2023年の大晦日だ。

スーパーで1人分のお寿司とどん兵衛の蕎麦、あとビールも買ってみた。

”20歳になってちょっとドキドキしながらも、ご褒美にビールを買ってみたときのワクワク”は28歳の私にもまだ少し残っている。

だから買ってみた。

休日のクリスマスに1人で過ごすのは嫌だけど、大晦日に東京で1人で年を越すのはそこまで寂しくない。

これは世紀末じゃない。

2023年の目標は「鈍感力」を高めることだった。

この目標は継続しつつ、2024年の目標は「人間を日常的に楽しむこと」にする。

2023年で自分自身について学んだこと
(仰る通り全てが自己満の世界で生きてます)

1.私が求めているものは、好きな人たちと深い繋がりを感じる瞬間、人生における冒険、何気ない日常であるということ

人と比べると物やお金、成功といったものにあまり対しての欲があまりないことを学んだ。

そういった欲があると思ってたし、そりゃあないわけではないのだけど、そういった分野で尊敬する人たちの真似をして生きてみたら”楽しいけど、なんか違う”ってなった。

それは上京してきて色んな分野の色んなタイプの人たちと関わったり、自分でも少し体験してみたからこそわかったことだ。

そもそも個人的に”あの人は人生成功しているよね”みたいな言葉があまり好きではない。

成功があるということは、失敗もあるということになるのが気にいらない。

綺麗事ではなく、生きてるだけで毎日みんな成功しているし、死んでしまった人も、生まれてこれなかった赤ちゃんも、命が発生した時点から成功してしまってるんだからね。

言うまでもないぞ。

あと、お金は大事です。

言うまでもなく。

2.「世界をみる角度」を発見していくことが好きだということ

写真や動画を撮影するのが好きだし、日常でも非日常でも、自分が経験した景色を発見していくのが好きだ。

それを編集で色や音楽をつけたり、文章を加えて表現するのも好き。

そして目で見える景色はもちろん、出逢った人の生き方やそれに付随する考え方だったり、自分が成長したからこそみえる景色が、この星にはたくさんある。

そういった発見をするために色んな経験をしたり、色んな人と逢ったりするのが好きです。

あと、自分が受け取ったものを世界に還元できる大人になりたいです。

いわゆる冒険家です。

3.HSS型HSP気質だということ

【HSS型HSPの特徴】
・高感受性:外界からの刺激に非常に敏感

・活発でエネルギッシュな性格:アウトドア活動、旅行などのアクティビティを好む傾向

・冒険心や探究心:新しいことに挑戦することを楽しむ傾向がある

・社交性や外交的な能力:社交性が高く、人とのコミュニケーションや人間関係を重視する傾向がある

・自由奔放:束縛されることを嫌い、自由で自分のペースで生きることを好む

私のことを知っていれば知っている人ほど特徴に当てはまっているのがわかると思うし、なんならこの記事を読むだけでわかっちゃうレベルでこれ、私のことなんですよ、切ないほどに。

ちなみにこれは病気ではないし、本当は勘違いされるのも嫌なのでどうかなと思ったけど、これは私だと胸を張って堂々と生きていきたいと思ったので、記事にも書いてみた。

自分の性格とやってることとの矛盾が多すぎて、言うならば「ロマンチックなサイコパス」のような性質らしい。

自分で納得してしまえた。

今後の人生はそんな自分の個性をどれだけ才能として生かして楽しく生きていけるかに挑戦していきたいと思った次第です。

・能天気に見せて銀河系より壮大に悩み

・周りに余裕に見せて思考の洪水が渦巻き

・期待に応えるために限界極限まで追い込み

・グループに合わせ人格を創造しては破壊し

・負荷が限界になって感情の電源が落ちても

・好奇心旺盛で刺激を求め何度でも繰り返す

・そんなループに疲れたら定期的に日記やSNSで言語化して、「本当の自分の気持ち」をたまに俯瞰する→まさに今ここ

ちなみに1月末までお仕事休職してます。

そろそろお寿司と年越し蕎麦を食べながらビールを飲む時間がやってきたので、来年のテーマソングを発表しようと思う。

「情熱の薔薇」:THE BLUE HEARTS

見てきた物や聞いた事 今まで覚えた全部
でたらめだったら面白い

映画や小説はミステリーが好きなのですが、死ぬときに伏線回収できるネタをどれだけ撒いていけるかという感覚で毎日生きてます。

死にたい私は、2024年を楽しみにしています。

多動性、衝動性によって生成されたロマンチッククリエイターの見解

ADHDだからかもしれない。

書くことが、心地良いのは。

ベッドに入って2時間くらい眠りにつけないのは日常で、瞑想もできない。

鬱な気分になることも、結構ある。

そんなメンヘラな自分を、未だに完全に好きになれないでいるのも事実である。

 

 

最近気付いたことがある。

何故私は文章を書くんだろうって考えてみたときに、実は「心のデトックス」をしていたんだということ。

 

日常でよくモヤモヤを感じるとき、どうすればいいかって調べると瞑想って出てくるでしょ?

 

だからやってみるのだけど、私は本当に瞑想ができない。

無になれない。

 

とっても瞑想したいから本気で何度もトライするのだけど、気付かないうちに数分で違うことを考えている自分に気付く。

自分でもこわいくらいに。

 

だって無になるのって、つまらないんだもん。

楽しいこと考えたいじゃん。

 

だから文章は自分に合った、心のデトックスの手段なのである。

自分のペースで、視覚的に見えるように自分のモヤモヤを文章にすることによって、その思いが浄化される感覚。

 

 

普段の何気ない時間に、自分の思考を客観的に観察してみたのだけど、めちゃめちゃ色んなことを感じたり考えたりしていた。

意外としないよね、自分の絶えず垂れ流しにしている感情だったり、思考だったりを改めて認識するという行為って。

 

だから夜も眠れないんだと思う。

グレーテスト・ショーマンの「A Million Dreams」の歌詞にめちゃくちゃ共感するもん。

 

毎晩ベッドに入ると

鮮やかな色彩で頭の中がいっぱいになる

無数の夢で目がさめちゃうんだ
 

僕が描いた世界は実現すると思う

無数の夢は叶えるためにあるから

無数の夢は世界を創るためにあるから

 

って。笑

 

未来を想像してにやにやしながら眠る日もあるし、自分の中にある闇の部分が広がって苦しくなる日もある。

寝るのが上手い人って、よく考えたらベッドでのこの妄想の時間ってないんだなって今気付いた。

 

小学生くらいのときは、好きな人と仲良くなる妄想を毎日してたなー。

現在は1mmたりとも恋愛の妄想とかできなくなってしまったのだけど、それってどうなのだろう。なんて思ったり。

 

 

ADHDの症状として、実際に入眠困難、睡眠の中断等がある。

そして日中は眠気の症状が強く出る。

 

私はまさにこれだった。

 

小学生の頃は毎日ベッドに入ってから2、3時間は眠れなかった。

 

大学の授業なんて、はりきっていつも1番前に座って真剣に聴いているのに、いつの間にか眠っている。

授業が終わって目覚めると、あーまた眠ってしまった…って嘆いてた。

先生からしたら、1番前に座っておいて堂々と寝る私のメンタルが理解できなかったかもしれない。

 

 

でも大人になってADHDグレーゾーンの診断をされて、改めて症状を調べたら殆どのことに当てはまった。

 

私はすぐ大事なことを忘れるから、何かやらなければいけないことができたらすぐにアラームを設定する。

これって小学生の頃保健委員会の当番の仕事を忘れて、クラスの男子に「お前、悪い子じゃん」みたいに言われたのがすごくショックだったトラウマがきっかけだと思う。(その台詞、改めて文字にするとなんか、あれだな…)

 

自分の携帯を持ってからは、アラームのメモに内容を書いて、思い出さなきゃいけない時間にアラームを設定して対策をするのが当たり前になった。

だから今でも夕方とかにアラーム鳴ったりするから、「え、なんでこの時間まで寝てるつもりだったの?」とかよく聞かれる。

 

精神科の先生は、上手く対策してきたんですねと言ってくれたのだけど、あーそういうことかと思った。

ADHDでなくても人間だから忘れることってあるけど、おめでたいことに、私は普通の人よりADHDの対策してるから大事なことを忘れないっていう長所ができた。

 

自分が人と違うことで自分を責めていた頃の自分に教えてあげたい。

 

お前それ、すごいもん持ってるじゃん!って。笑

 

人よりよく怒られるし、集中力がないから何かをやり遂げる能力も劣っていた。

そんなの人間社会のルールで言えば落ちこぼれなのだけど、大人になって思うのは、落ちこぼれは落ちこぼれなりの長所ができる。

そもそも「落ちこぼれ」なんて言葉は社会の中では使えるけど、地球的に言えば意味を成さない用語である。

 

仕事ができない人の気持ちが理解できるから、「なんでこんなこともできないの?」と正直思ってしまったとしても「ここで感情のまま伝えたって、それはかっこわるい上司と同じだ。」って踏みとどまれたことができたことがある。

 

よく怒られるから、怒られる度に悩んだし、でも悩んでるだけでは生きてなんていられないから、思考で前向きに考えられる能力も後天的に身に付けることができた。

それは最初からポジティブな人とは、また異なった長所だ。

ネガティブからのポジティブという”幅”を知っているのは、強いと思ってる。

 

人とは違う視点で物事を考えるきっかけが与えられているわけです。

それでいて、人とは違うことに気付けるようになる。強くね?

 

そもそも私のADHDに対する見解は、いわゆる”普通の人”よりも人間らしいのではないかってこと。

ちなみに忘れてはならないけど、私元看護師だからね。笑

一応、大学で精神疾患勉強してるの!

 

好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」

思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」

これらのADHDの特徴って、言い換えれば「自分の心に素直に生きてる」という長所を持っているということでしょ?

 

不注意さや物忘れも、あくまで社会の中で必要な能力であって、その能力が低いからといってその人自身の魅力は失われない。

 

むしろ私は自分の好きなことを素直にやっている人や、思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう人の方が好みだ。

長所とか短所とか、結局どの視点で、どの基準で決められてるのかって話。

 

いわゆる”できる系”の人だったら、こんなこと考えもしないわけである。

私はそんなできる系の人と真っ向勝負したっ勝ち目はごく僅かなわけで、戦略立てて挑むか、違う土俵で、違う視点で生きるのが性に合っていることも知っている。

 

そうやって色んな個性の人が、色んな出来事に揉まれながらも、最終的にその経験が自分の居場所を見つけることに繋がっていくのだと思うと世の中上手くできてるよなーと思う。

 

ADHDなんて、そもそも人間を統一するために不都合な能力を”病気”として捉えているだけの話だと、私は思っている。

 

だから、誇る。

自分が田舎に生まれた理由は、意外とロマンチックかもしれない話

「アメリカ文化」というものはないらしい。

地域によって違うし、地域の中でも個人によって違うからだ。

 

日本においてはどうだろう。

やっぱり真面目だけどシャイで、自信もないイメージがあるし実際海外と比べるとしたら日本人の気質ってそういう部分にあるだろう。

あと、人生を楽しんでいるように見える人も比較的少ないように思う。

 

あくまで私の立場での個人的な意見であるし、日本人を否定したいわけではない。

むしろ私は日本人が、普通の日本人よりは好きだと思う。

 

私がメルボルンで過ごしていた時、オーストラリアって移民の国だから、誰がオーストラリア人なのか分からないレベルで色んな人種の人たちが生活していた。

偏見が含まれている部分もあるのかもしれないけど、私が出会った人たちはやはり国ごとに人の性格だったり価値観だったり似ている部分があったのは確かだった。

 

 

友達になった中国人に疑問を抱いて、ふとこんなことを聞いたことがある。

「なんで君は、あんまり笑顔にならないの?中国人の人たちってみんなシリアスな表情してない?」って。

なんで中国人の友達に聞いたかというと、私のバイト先の中国人の人たちも全然私に笑ってくれなかったからだ。

 

これはあくまで私の友達の中国人の人が言っていたことなのだけど、中国の文化って親密な関係にならないとあまり笑顔を見せないらしい。

笑顔を見せないという表現は合っていないような気もするけど。

愛想がない感じ!

 

でも1度仲良くなるとすごく心を開くし、信頼性激つよなんだそう。

実際、最初は恐い表情しか見せてくれなかったその中国人の人たちも、関係性ができてくるに従って笑顔を見せてくれることが増えた。

結構、嬉しかった。

 

 

なんてこともあったし、私はラテン系の友達がたくさんいたのだけど、週末は毎回20人くらい友達を集めて、ビーチでBBQをして飲みながら踊り明かすことがよくあった。

 

ダンスが好きな人たちが集まっているのもあるだろうけど、やっぱり日本人とノリが違うなぁと感じた。

私はダンスが好きだからよく友達に踊ろ!っていうのだけど、なかなか日本人で踊ってくれる人っていなかったりする。

日常に踊る文化がないもんね。

 

 

何が言いたいのかというと、人間って環境に大きく左右されるんだなってこと。

 

例で挙げたのは国という環境だけれど、地域、家族、学校、貧富、気候…全ての環境においてそれが言える。

 

自分が好きな食べ物やファッション、やりたい仕事、好きな人…全部自分で選んでいるようで、実はほとんどが「”今までの自分が育った環境によってつくられた自分”に選ばされている」のではないかなって思う。

 

大学生の頃、新潟県民は背油ラーメンが大好きだけど、山形県民の友達らは「あっさりラーメン以外、ラーメンじゃない!」と言われて衝撃だった。

あっさりラーメンも美味しいけど、背油ラーメンがラーメンじゃないなんて、どう育ったらそんな嗜好になるんだ!!って。

 

日本の食べ物大好きマンだけど、海外の人の意見を聞くと「寿司美味しいよね!」とは言われるけど、自分が思っている以上に評価は低い。

やっぱりみんなそれぞれ、故郷の味が1番だという人ばかりだ。

 

大学のゼミで「人間は脳で食べている」というテーマについて研究したのだけど、まさにそれだと思ってる。

故郷の味、つまり慣れ親しんだ「思い出の味」が無敵なのだ。

 

 

ファッションも田舎にいた時だったら絶対しなかったようなファッションを東京で着ているし、自分が進路を考えるときに選択肢が看護師や公務員くらいしか頭になかった。

図書館にある「職業図鑑」的なものでしか、調べる方法が思いつかなかった。

 

「外の世界を知ろうとしなかった自分がわるいよ。」と言われるのだけど、”外の世界がある”だなんて知らなかったんだもん。

知っていたら「どうやって調べればわかるかな?」と考えられるけど、そもそもその存在を知ることがなければ調べようがないでしょ?

 

小さい頃からお母さんにずっと「看護師はいいよ」と洗脳のように言われて育ったことが、私が看護師になった理由において大きな割合を占めている。

ちなみに医療現場での医療ミスも、「ミスは、ミスした人のせいではなく、環境に問題がある」という考え方で改善策を考える。

経済学でも、そんな考え方あるよね。

 

 

上手くいかないことを、環境のせいにしたいわけではない。

その環境に生まれたからといって、後悔があるわけでもない。

全部を含めて今の自分があるわけだから。

 

今の大好きな人たちと出会えたのも、私が生まれた環境、育った環境、今までしてきた自分自身の選択、全てのおかげだ。

  

小さい頃の家庭環境は私にとって最悪だったけど、あの人生で1番辛かった小学生時代が、今の私の基盤となる価値観をつくっている。

 

自分の居場所があるだけで幸せだと思えるし、「明日を生きたくない」と思わなくていい日常にすごく感謝ができる。

こういうことを、綺麗事だと思う人にならずに済んだ。

  

今好きな人を「好きだ」と思えるのは、今まで生きてきた環境のおかげでもあるとさえ思う。

 

なんならそもそもこの環境で生まれたのって、その人と出逢うために、生まれてくる前の自分が仕組んだ環境なのかもしれないなんて思ったりもする。

「え、小さい頃から○○が好きなの?偶然だね、私も!!」ってなって運命感じてしまうのって、人間のロマンチックな性質ではないだろうか。

追記:セーラームーンは、前世で戦争によって幸せになれなかったセーラームーン(月のお姫 様)とタキシード仮面(地球の王子)があまりにも可哀想だと思い、セーラームーンのお母さんが2人を同じ時代の地球に転生させたのである。2人は偶然道端で会って、お互い初めて会ったのに、何故か知っているような感覚を覚えて惹かれ合っていくストーリーである。

 

このロマンチック、お分かりいただけただろうか。

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。お酒は飲まなかった。

真っ暗な世界をみたことがあるから、明るい世界に”色”があることに感動する。

だから、落ち込んだ日常も嫌いじゃない。

 

何故か今日は、会社帰りの電車に揺られながら涙が溢れてきた。

鬱とか、そういう類の涙ではない感じはした。

女の子の日は、もう過ぎたんだけどな。

 

確かに心がなんとなく曇っているような気もするし、人間だから数えてみれば心がちょっとブルーになる出来事もいくつかある。

 

電車で泣いたことは何回もあるなー。

私って泣き虫なんだなー。

遠くにいる好きな人に会いに行って、夜行バスで帰るシーンでは何回泣いたんだろう。

 

なんて、さすがに家に帰るまで号泣しないように、今この瞬間から意識をそらした。

 

本当は外に走りに行きたかったけれど、この目に見えない悲しみに浸りたかった。

気分が落ち込んでいるときは、とことん浸るのもいい。

 

だから家に帰って気が済むまで泣いてから、Netflixでいつもはあまり観ない邦画のジャンルで今の自分に寄り添ってくれる作品を探した。

感動で泣いた。

 

友達に電話したけど、出なかった。

そういう日か。

 

ハンバーグに目玉焼きをのせて、食べた。

お酒は飲まなかった。

 

明日は、金曜日だ。

金曜日の夜だけでもいいから、踊っていられればいいな。

今日はUber eatsを頼もうとしたのだけど、お店もメニューも多すぎて、めんどくさくなった。

 

自由なのだから、何を頼んだっていいのに。

「何でも選んでいいよ!」って結構、難易度高かったりする。

 

でも結局何も選べないで終わるのって、1番つまらないよな。

 

なんて思いながら、自分の足でCoCo壱にカレーを買いに行った。

 

それはそれで、また1つの選択肢だったりもする。

 

何が大事なのかは、”自分の意志で選んだかどうか”だ。

 

人生の選択肢だって、きっと同じで。

 

大きな選択って吟味しがちになってしまうけど、結局えいって飛び込んじゃう勇気が1番大事なんだと思ってる。

私の人生においては。

計画性ゼロだから。(ADHDグレーゾーン診断済)

 

「自分の個性を創っていくために、何を頑張ろうか」という議題が自分の中にずっとある。

 

「鉄は熱いうちに打て」は常に念頭に置いてあるから最初の行動まではするのだけど、それに自分の若さを注ぎ込むのってすごく勇気がいるんだよね。

 

んー私にはこれ合わないなーと思って辞めたこといくつもあるけど、辞める決断をする度に恐かった。

 

やってみた分だけ”こっちの道ではない”ってことは分かるけど、また新しい道を探さないといけなくなる。

 

それって結構、きつい。

 

でもそのキツさって、意外と未来の自分にとっては大事だったりするんだよね。

 

悩んであーでもないし、こーでもないかなんて試行錯誤してできていく自分をどうにかこうにかして可愛がっていくのが自分の仕事だったりするんだろう。

 

そうやって私ができていく。

技術とか肩書きとかそういう部分ではなく、目に見えない、基準もルールもない範囲での、自分が。

 

悩みたいのなら悩めばいいし、現状を変えたいのなら変えればいい。

シンプルに。

 

ときめきたいのなら、タフなハート持たないといけないらしい。

 

逆説的に言えば、死ぬこと以外はかすり傷なんだろう。

だから、どんなときだって、踊ってられればいいんだ。

金曜日の夜だけでもいい。

人はみんな、「弱い」という強みを持っている件。

人間は弱い。

だから人を好きになれる。

 

社会人になるまで、とにかく夜が寂しかった。

田んぼに囲まれている家で、夜に音はなかった。

 

いや、厳密には夏に蛙が必死に鳴いていたし、秋はコオロギが全力で歌っていた。

なんでそんなに必死になれるんだよ。

 

「風物詩だね~」だなんて感じる心は、未だ持ち合わせていなかった。

 

私は暑くても寒くても、浮つくような気温でも、夜はいつも寂しかった。

 

だから毎日誰かと寝落ち電話をしてた。

1人だと、ベッドに入ってから眠りに落ちるのに2、3時間はかかるから。

 

誰かに、話続けていてほしかった。

我ながら、メンヘラだなぁ。

 

でもその寂しさから作られた”人に出会いたいエネルギー”って、とてつもなかったよなとも思う。

今となっては「若い頃人見知りだった」と言うと「嘘つくな」と言われるくらいだけど、本気で人見知りだった。

中学生くらいまでは全然タイプじゃないのによく話しかけてくれる人とか、ぶつかって「ごめんね!」と言ってくれるだけでも恋しそうになるくらい、簡単に釣れる女の子だった。

 

なんだけど、私はどこかの誰かに電話が繋がる斎藤さんアプリで寝落ち相手を探しまくっていたから、いつの間にかめちゃめちゃコミュ力は上がっていた。

斎藤さんアプリで、トライアンドエラーしまくってた。

 

そのうち定型文の会話に飽きた。

「どこ住み?」

「何歳?」

「何してるの?」

 

こんな浅いアプリでそんな浅い会話して何が楽しいんだ?と思って、真面目に返さなくなった。(一般的にはそういうやつの方が怠いと思われるのだろう。くそアプリに何を求めてるのかと。)

 

 

「どこ住み?」「色んな世界に住んでる。」

「何歳?」「歳を知らない方が私のこと、もっとシンプルに知れるかもよ。」

「何してるの?」「君は今何に興味があるのかについて、知りたいと思ってた。教えて。」

 

くそアプリをなんとか面白くしようとするくらいには、時間が有り余っていたあの頃。

面倒な女だ。

そんなやりとりを少なくとも1,000回はした。

基本を身に付けると、応用ができるという事実を学んだ。

 

こんなに斎藤さんアプリを人生に持ち込んで、成長に活かした人は私が1番だと思えるくらいいやった。

私の尊敬する人たちってさ、みんなスポーツとか受験で人生の基盤築いてるの。

 

一応私も、ミニバスとソフトテニスはやっていた。あとダンス。

運動好きだけど苦手な残念なタイプだったから。

 

受験も専願受験と推薦入試だったからな。

一応国公立コースで真面目に勉強してはいたけど。

 

だから私の誇れるものってどこにもなかったんだけど、出会い厨だったことには誇りを持てる。

そうして私は自分の人生の基盤を築いた。

すごくてかっこいい人はたくさんいるんだし、こんな奴がいたって世界の幅が少し広がると思えば楽しくないか。

 

そんなことが誇れるだなんて当時は思ってはいなかったけど、大人になってそれが私なんだと腑に落ちた。

 

受験も部活も中途半端、人生中途半端だけど、人と繋がりたい意欲は人より大きかった。

そもそも中途半端がわるいだなんて世の中が決めているだけで、私の興味のあることを欲求が満たされるレベルで辞めて何がわるいのだ。

 

そう開き直れるくらいには、強くなった。

完璧ではないけどね。

 

 

大人になって、寂しい夜はなくなった。

それは、少し寂しいことのような気がしなくもない。

 

でもあの時の弱い自分、誰かにすがりついていた自分が、現在の自分を強くしてくれている。

そう思う。

 

人間は”弱い”っていう強みを持ってるんだって。

 

弱いからこそ、「栄光の架橋」で”誰にも見せない泪があった”の部分に共感して泣けるし、

仕事が辛くても一緒に頑張っている同期がいることの幸せを知れたりする。

 

弱い自分がいたからこそ、もっと強くなれたときに、もっと自分を好きになれる。

弱い自分が頑張った時間は、誰にも奪うことのできない自分だけの資本だ。

その資本で人生において事業を展開するのだから、面白くないわけがない。

 

 

そんなことを思いながら、私はまた、強くなろうとしている。

”何に向かってるんだ私!いや、瞬間を生きろよ私!”と矛盾の切なさを抱えながら走った夜の出来事

「何に向かって生きてるんですか。」

その質問が嫌味に聞こえたらしい。

 

「そういうこと言う人、おるんよな。」

「違いますよ、そういうことではなくて。素直な気持ちで聞いてるんです。なんでそんなに毎日毎日頑張れるんですか。」

 

「あーね。ごめんごめん、嫌味かと思ったわ。ダンスめちゃめちゃ頑張ってたときも”そんなにダンス頑張って、プロのダンサーにならないのにどうするの?”って聞いてくる人とかいたんよな。俺は長所をつくっていきたいんだよね。そのためには頑張ることを中途半端にするのは嫌で、全部振り切りたい。そうやって自分の幅を広げたいの。」

 

野球部のキャプテンのときはみんなに”素振り200回はしろ。”って言っていたけど、彼はバットに重りをつけて毎日500回素振りをしていたらしい。

 

そういう話を聞くと、私は泣きたくなってくる。

なんでかってことを正直に言うと、自分に頑張れない認定をしてしまっているからだ。

頭では言い訳だと理解していても、自分の小さい頃の成功体験がないという記憶が潜在意識にすり込まれている。

 

頑張れない認定をしてしまっている自分は大いにダサい。

 

わかっているからこそ、悲しくなってくる。

悲しくなるんだったらやれよ、Just do itだろと思ってまた泣きたい気持ちが大きくなる。

 

 

 

今日は仕事で疲れてベッドに倒れこんでいた。

今日は走って筋トレしたいなーと思いつつも、眠すぎて身体が動かなかった。

 

”トントントン”

「はーい?」

「もうごはん食べた?あら汁作ったけど、食べる?」

「食べる!!」と言うのと同時に身体が跳ね上がった。

しげくんは料理が好きで、たくさん作ったときはいつも私たちシェアメンバーに配給してくれる。

 

作ったごはんをくれたり、食べているものをシェアしてくれたりする人がいるのって、この世で幸せ感じる瞬間ランキング上位だよなって思う。

 

だから私はあんなに眠たかったのに、べッドから離れられた。

おいしーい幸せを飲んでいたら、”バッドに重りをつけて素振り500回していた彼”が帰ってきたから冒頭の会話になった。

だって毎日毎日どんなに忙しくても、朝早く起きて会社に行く前と帰ってきた後に勉強してるんだもん。

 

あら汁を作ってくれた20歳のしげくんも、夢に向かって必要なことを毎日勉強している。

  

人と比べてしまうのも良くないけど、これは私にとっての刺激なんだと思う。

「自分のペースでいいんだよ」と言ってくれる人もいるけど、それもわかるんだけど。

努力に関しては、甘えと自分を律することの境界線が難しい。

 

目的が”幸せを増やすこと”であるのを忘れてしまっては、意味がないから。

でも、そんなことをうじうじ考えている自分も嫌になってくるループ。

ほんとにJust do it大事。

 

重りバッド500回素振りの彼も「努力は正しい方向にしないくらいだったら、寝てる方がマシだ。」と言っている。

 

”努力は自分の幅を増やすためのツール”なんだよなって改めて認識できた日だったなー。

 

とか言ってみるけど、その会話をした後に劣等感に苛まれた私は居たたまれなくなって、ランニングをしに家を飛び出した。

 

 

きっと1人で暮らしてたらべッドからも起き上がれず、寝落ちしてしまっていたんだろうなって思うと、私の日常に出てくる登場人物は強い。

 

”何に向かってるんだ私!!いや、瞬間を生きろよ私!!”って泣きながら走ったのは、秘密にしとこ。

自分というエンタメを、いかに面白くさせるかについて真剣に考える回

わかりきっているのに、悔しくて涙が出てきた午前0時。

 

「前のシェアハウスには、自分の夢に向かってずっと頑張ってきた人たちがたくさんいたんだよね。目標に向かって頑張って大きい貿易会社に入ったり、絵が好きで今はインスタで絵を売っているけど、最近は美術の学校に通い出した人もいる。そんな人たちといるとすごく刺激を受けるんだ。そして自分も頑張らないと追いつけなくなる。差が離れすぎちゃうと、それはもう友達じゃいられなくなるんだよ。足枷みたいになりたくない。」と、同じシェアハウスに住んでいる19歳の大学生が私に話した。

”前のシェアハウスの人たち”というは、25歳の私よりも年下の子ばかりである。

 

 

知らなかったけど、どうやら私の中にもプライドというものがあったらしい。

 

そしてそれが割れたらしい。

 

 

人はひと、私は自分だ。

 

でも、目の前でそんなことを話されたから「大きい夢なんて持っていないし、目標に向かって努力できるタイプではないし、つまんない25歳」と言われているようだった。

 

目の前の現実を全力で生きれていたら、そういう話を聞いても何も傷つかなかっただろう。

 

私は自分をまだ認められないでいるんだ。

自分をつまんない25歳だと思っているから、落ち込んだのだ。

その現実を突きつけられた。

 

大きい夢なんてなくたって、今はどんどんやりたいことが溢れてきているし、明確になってきている。

目標に向かってコツコツと努力できないタイプだけど、試行錯誤しながら日々自分にできることはしているの。

 

でも私が思う「自分」にはまだなりきれていなくて、いや、その過程を楽しむのも大事だとは思っているのだけど、うん。

 

やっぱりどうやったって若い頃から夢があって、それに向かって頑張ってきた人には年下だって叶わない。

過去は変えられないのだ。

 

だから”その過去を、どうやって面白く魅せるか”で闘うしかない。

 

「良くも悪くも平凡で何の個性もない私の過去」を、どうやって料理するかを考えるのだ私!

   

 

かといって答えなんて見つかってないし、今の時点で見つかってその答えに固執するのも違うと思うし、そもそも答えなんてないし。

 

「りなは何がしたい?」

とその真っすぐな19歳に言われて、一言では言えなかった。

 

 

でも少なくとも私が生きていたいのは、大好きな人たちとお酒でも飲みながら、今何に興味があって、これから何をしたいのだとか、そういうことをわちゃわちゃ話して幸せを感じられる未来だ。

 

幸い、もうその”未来”は現在進行形で叶っている。

 

もっともっと大きい自分になってその未来の幅を広げていくのが、私の今の望みである。

 

 

その”未来の幅”が、エンタメを面白くさせるキーなのだ。

 

 

そうなったときに、私はやっぱり自分をちゃんとエンタメ化したいと考えた。

 

自分が1番ワクワクするストーリーを創っていきたい。

そして私自身に魅せつけてやりたい。

 

 

もうすでに何回か軽く死んでるし、何したっていい。

 

私は「何したっていい」の難しさをぐさぐさ感じてきた身であるのだけど、ここ最近思うのは、「何したっていい」の幅は行動することでしか広がっていかないということ。

そして自分1人では広げられないということ。

 

夢を持っている人、好きなことを仕事にしている人、好きなことを仕事にしていないけど趣味をとことん楽しんでいる人、私の知らない世界をたくさん知っている人、自分にはないものを持っている人…そういう大好きな人たちが周りに増えれば増えるほど、私の周りには大好きな人たちの”大好き”が増えるわけで。

そんな環境の中で私の想像できる未来が大きくなっていっているのは、確かだ。

 

幸せでいる覚悟はすでにあるのだけど、それだけでいいのだけど、人生まだまだ長いから自分の人生に飽きるのだけはごめんだとも思った。

 

私はずっと分かっていて敢えて決めないでいた覚悟がある。

 

 

「まだ知らない自分を超える覚悟」だ。

 

もう26歳にもなるし、自分がどういう人間かって大体分かってるつもりだった。

 

だけど長い人生、20代半ばの時点で自分が分かってしまうなんて、そんなつまらないストーリー構成を危うく創ってしまうところだったんだ。

 

未来が想像できてしまう時点で、もう人生のエンドロール流したいレベルである。

 

 

ちゃんと自分自身の頭で考えて、恥をかいて、失敗して、まだまだ軽く死のう。

もっと知らない自分に出会うために。

 

自分の心臓を、どれだけ速く刻ませるかだ。

 

つまらないをネタに、1杯どうですか。

本日、もやもやな感情が生まれた。

  

人は数えきれないくらいの感情を、垂れ流しにして生きている。

自分から生まれた名前のない感情たちが、私の日常をバラエティ豊かにしてくれている。

 

でも私は、「楽しい」や「ハッピー」のような感情ばかりを認め、自分の中の違和感は見て見ぬ振りをして大人になるまで生きてきた。

 

でも楽しいやハッピーはもちろん、もやもやした感情もまた、大切。

もやもやは、自分が進みたい方向のヒントを教えてくれる存在だからだ。

  

だから今日、その取り留めのない感情をキャッチできた自分は成長したのだなと思い、ちょっと嬉しかった。

  

というのは前置きです。

 

 

 

もやもやの感情が誕生したのは、初めて参加した読書会だった。

 

人に誘われて、どういう会なのか興味もあったので試しに参加してみようと思って。

読んだ本を紹介して、それについてみんなで色々話したりするという会だ。

 

参加している人たちは色んな方がいて、多分人生に対して真剣に考えて今を変えたいと思っている人たちな感じがした。

なんか意識が高かった。

 

みんなビジネス書を紹介していて、「こういう部分に感銘を受けたから自分はこれからこうしていきたい」のようなことを話していた。

 

 

 

んー、私は正直つまらなかった。

なんか、もやもやしていた。

 

 

ビジネスとか社会のことととか、働き方とか、そういうことにはちゃんと興味はある。

だけどビジネス書の紹介を聴いていて、その内容を自分の言葉に置き換えて書いてあることをそのまま話しているだけのように感じてしまった。もやもや

 

  

そんなもやもやが生まれた理由を考えてみた結果、私が期待していたのは「その先」だったということが判明した。

 

現在のこの世の中に生きている大人はどういう本を読んで、どういうことを感じて、”どういう意見を持つのだろう”という部分に興味があった。

 

であるのに、その本がどういう本なのかはなんとなく分かっても、紹介している人がどういう価値観を持っていてどういう考え方をするのかということが私にはわからなかった。

そしてそれを聴いた他の人たちに対して意見をして、みんなで考えてそこに生まれる”新しい何か”を私は楽しみにしていたんだなぁと振り返って気付いた。

 

あくまで私の興味についての話であるから、その読書会や参加している人たちを否定しているわけではない。

 

 

小説だったら人によって感じ方や捉え方が違うから、私が期待しているような読書会になるハードルはきっともっと低いと思う。

物語って感情が動きやすいものであるから、人それぞれで全然違う部分がグッときたり、同じ部分でも響いた理由が違ったりする。

だから、読書会であーだこーだ言うの楽しそうだなと思って。

 

 

でも参加者の人たちが紹介していた本は、ビジネス書だ。

ビジネス書は小説と違って「情報」が書かれているから、どこの部分が刺さったかというのは人それぞれ違うとは思うけど、その先の先まで発展させて会話をしないとただの情報交換になってしまう。

 

それではわざわざコミュニティで人と関わって行う価値というものが薄くなる。

それなら自分自身で実際にパラパラって本をめくってみたり、口コミを読んでみたりすればいいのではないか?というのが私の意見である。

 

私はどうせ人と集まって話をするのなら、そこでしか生まれない何かを発生させて持ち帰りたい。

 

 

人間性と人間性、価値観と価値観、人生と人生が同じ本を読んで何を感じて、どう考えるのかをみんなで伝え合い、発展させて生まれたものにこそAIにはできない価値が生まれるのだと思う。

それが私的に、ロマンチックなのだ。

 

でもこの読書会に参加して、将来読書会ではないけど違う分野でコミュニティもつくりたいと考えていたから、自分の価値観が浮き彫りになって自分自身をもっと知れた。

 

 

ちなみに私は益田ミリさんの「今日の人生」というエッセイ漫画を紹介したよ。

筆者の日常がシンプルな漫画で描かれていて、オチもないくらいのシンプルな作品だ。

シンプルに表現されている本当に何気ない、リアルな筆者の日常を読んでいると、普段自分の中ではスルーしてしまっているふとした瞬間に思うこととか、素直な私らしい感情だったり、そういう目に見えない大切なことを気付かせてもらえる作品である。

 

私以外の人がビジネス書を紹介している中きっと場違いだったんだろうなとは思うけど、個人的に思ったのは私のターンが1番色んな人の意見が飛び交っていたし、意見している人の人生が垣間見えたし、話がどんどん発展していってたと思うんだ。

その読書会のコミュニティに対する目的が私とは違うから、それが良いとかわるいとかそういう話ではなく、私の嗜好の観点からの話でね。

 

 

私は最近、自分の枠をもっと広げたい欲がたくさん出てきた。

 

なぜなら私の意見に人生が垣間見えたとして、その人生にもっと面白さが足りないと思うからだ。

という面白くない理由で、私は人生をもっとシャカシャカしたい。

 

もっと論理的なお花畑脳内になりたい。

もっともっと自分の世界観をワイドにしたいし、4D化したいし、文明開化したい。

それでいて、星見上げたい。

 

と思ったのでつまらないをネタに、1杯飲みませんか。

共感と面白いを同じ扱いにはせず、”理解されない面白い”で未来を創ってる話

 

未来を面白くしていくには、最初の思考の”その先”が大事だということに気付いた。

 

情報を受け取って、その知識をそのまま活用するのが一次思考だとしたら、その先の二次思考が大事だということである。

 

 

私はインスタグラムで発信するときに、誰かの言葉をそのまま引用するのが嫌なタイプである。

 

例えば名言をそのままコメントとして投稿するということをしたくない。

(敢えてそのまま引用する場合もあるよ)

 

完全に身内に向けた発信であるし、自己満であるから何でもいいのだけれど何故かそこにこだわりがある。

何故の部分を考えてみたら、私は「自分色を取り入れないと、発信する価値がない」と思っているからだという結果に気付いた。

 

考え方は人それぞれであるから、あくまで”自分の場合は”の話である。

 

 

私が思う「自分色」というのは、誰でも発信できる内容ではなく、25年間生きてきた今までの自分を総じて出てくる言葉である。

 

だからインスタグラムで写真を投稿する際には、「旅行に行ってきました。」「楽しかった。」だけでコメントしたくないというこだわりが私にはあるのだ。

 

上手い、下手は関係ない。

誰得かといえば、自分得だ。

 

大学生のときから無意識に、そんなこだわりでインスタグラムを投稿してきた。

ずーっと同じスタンスで投稿してきたから、それが私の好きなことの一部なのであろう。

 

 

最近はたまにコメントで私の「言葉が好きだ」「感性が好きだ」と言ってくれる人が増えた。

自分得を積み重ねると、こういうイベントが発生したりするから楽しい。

ありがとう。

 

 

私はずっと3日坊主で「続けられないこと」がコンプレックスであったけど、そんな身近にずっと続けていることがあった。

 

やりたいことって本当に無意識にやっていることだから、気付くのって難しいね。

逆に、気付いてしまうとこんな簡単なことだったのかと驚く。

 

だから「自分のやりたいことって何だろう」と考えると仕事や趣味で考えがちだけど、大体の人は逆なんだと思う。

「”私はインスタグラムで自分色を発信するのが好き”だから、なんの仕事をしよう?」なのだ。

 

義務教育で取り入れた方がいいと思う、この授業。

AIがもっと発展したら完璧な思考は必要なくなるからこそ、自分思考が絶対大事なのだ。

人間味のある思考が。

 

 

私がインスタグラムの言葉を考えるときの流れは、

①撮影した写真を気分でピックアップ

ちなみに写真を撮る時も、私は上手く撮ろうとするのではなく、「私がみている世界をどのように切り取ったら一番表現できるかな」というスタンスで撮影している。

 

②その写真を見て、自分の中で大喜利をする。

そこにいるだけで

めちゃくちゃ綺麗に咲いているのに、

鏡に映る桜は風が吹いたら濁っちゃう。

 

私の目にみえている世界も

よく風が吹く。

 

詩人か!と突っ込まれることもあるけど、例えばこんな感じ。

 

この流れで投稿している。

これは私が桜を観に行ったときの写真だけど、「綺麗だった。」だけではつまらないから私なりの感想を述べている。

 

そう、一次思考で「綺麗だな」と思ったことをそのままコメントにしたって私は面白くないのだ。

自分が投稿する意味がない。

私の存在意義を表現したい。(重め)

 

だから「綺麗だな」と思ったのは何故なのかとか、その桜にはどんなストーリーがあるのかとか、桜の視点からみた世界はどうなのか、みたいに色んな視点で自分の感想を考えてみる。

 

私はその過程を楽しんでいる。

 

 

「共感」と「面白い」を同じにしてはいけないという話もそれに似ている。

 

共感されるものは「いいね」されやすい。

あるあるものまねが最近とても流行っているのは、共感と面白さの相乗効果が大きいからではないかと思う。

 

しかし、共感に比べて面白いというのは種類がたくさんある。

funnyやinterestingがあるし、interestingに関しては人によって、あるいは考え方によって変わるのだ。

 

パリコレのファッションが素人にとって何がオシャレなのか理解できないように、面白さも世間に理解されないことがたくさんあるのだと思う。

 

ただ新しい時代を築いてきたのは、時代に理解されない人たちが”理解されない面白さ”をとことん突き詰めたから創られてきたのだ。

  

私はこれをしたい。

 

何か情報を得たとき、自分がどう感じてどう考えて、どう表現するのか。

一次思考の後に自分の世界で考えて、それを現実で表現する過程が、私はロマンチックだと思う。

  

自分にしかわからない面白さ、自分にしかみれない世界観がそこにはある。

 

その面白さや世界観が、他者の面白さや世界観とぶつかったときの化学反応はもっとロマンチックであるから、私はもっと「その先思考」を増やしていきたい。

 

私の”その先思考”とぶつかってくれる方、募集中です。