究極のシーンで「そもそも私って人間だったっけ?」と、常識から疑ってみる現実逃避を取り入れる。

今日の私は治安が悪い。

誰に向けたいのかわからないレベルの中指を立てたい気分だった。

 

駅から徒歩3分で帰れる道をのろのろあるくだけでは物足りず、家を通り過ぎて歩き続けた。

  

眠たいはずなのに、家に着きたくない矛盾した気持ちでとりあえず昔よく歩いた道を進んだ。

 

そういえばお気に入ったお香がなくなってたんだと思い出し、ドンキ・ホーテに立ち寄る。

そしたらお酒が飲みたいわけではなかったけど、なんだか悪いお酒の味が飲みたくなって、いつもは選ばない缶のジントニックを選択した。

 

 

1人でお酒を歩き飲みするなんて治安悪いなと思いながら、前にジャンと見つけた屋上に向かっていた。

 

何も考えずに、私の指はジブリコンサートの再生ボタンを押す。

 

東京の夜は青い。

人が密集しているはずの街に、自分しかいない世界にいるような感覚になれるのは何故だろうか。

百年ぶりの世紀末だな。

なんか涙が出そうだ。

 

久石譲の音楽は、ありそうでない、ないようで”ある”何かが胸に突き刺さって苦しくなる。

泪が出そうで笑えてくるのが、人間の心理の肝かもしれない。

 

人生のメリーゴーランドの終わり方のような最後だったら、幸せかもなと思った。

 

 

ディズニーは、夢を与えてくれる。

ジブリは、切ない感情と共に生きていく勇気をくれる。

  

だから苦しければ苦しいとき程ジブリの曲を聴くと、”現実だからこそ”なおさらドラマティックになってしまう。

だから久石譲は魔法使いよりすごいという理論が、私の中にはある。

 

なんて物思いにふけながら気付けばセットリストがルージュの伝言に変わっていて、るんるんと屋上の階段を下りて帰路に向かっていた。

 

そんな金曜日の夜。

「私はくそつまならい、普通の人間であるからこそ面白い」という勇気を述べる

自分の客観的で冷静な思考と、ありのままの自分の本心が矛盾して起こった化学反応によって、何かを乗り越えたのちに新しい自分ができる。

そしてその化学反応で一緒に生成される産物が、涙だ。

CO2+H2⇄CO+H2Oで一酸化炭素ができるのと同時に、水ができるみたいにさ。

 

最近何をするにも自分きもいし、ダサいって本心が思ってしまって、頭では「お前、かっこいいぞ。」って言い聞かせてあげるのだけど、結局こらえても後で1人で泣いてしまったりする。

本心と喧嘩して少し新しい自分ができる代わりに、涙が生成されてしまうという仕組みだ。

 

「お前頑張ってるじゃん」の”頑張ってる”を、どうしても主観的にみてしまって。

こんくらいで頑張ってるとか言い聞かせている自分が嫌になるという、悪循環があったりする。

 

上司に叱られているときも、頭で成長するために上司の言っていることは正しいから自分がまだまだなのだとは思うのだけど、心はもっと未熟だからついていけない瞬間がある。

なんなら生理前なので、正論とかいう類のものが全てうざくなってくる。

上司の正論にイラついているのではなく、自分がその正論に当てはまろうとしていることが。

 

自分の本心くらい、大事にしてあげろよって。

正論で成長する部分があるのは確かだけど、とりあえずその叱り役は上司が担ってくれているのだから、自分でその役を買わなくたっていいのだ。

 

お父さんが叱り役なら、なだめ役のお母さん的な存在も自分の中に必要なのだ。

 

とりあえずどうしても自分を許せないのなら、自分の理不尽な感情を肯定する勇気を持ってみるなどしてみる。

 

1人で勇気が持てないのなら、Betty Davisのようなロックとか、GIRLBOSSのような映画を観て、背中を押してもらいにいけばいい。

ロックにのれない人生は、きっとつまらない。