冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを勝手に食べちゃってから始まる、浪漫飛行。

私はもっと自分の生命をエンターテイメントとして楽しみ尽くしたい。

出世だとか結婚だとか、老後がどうだとか、どうでも良くなくなるくらい”今この瞬間”を楽しみたい。

そういう”日本語には存在しない部分の日常”を冒険していたい。

失敗しないように、死なないように生きる人生は嫌だ。

失敗しても笑い飛ばせる生き方をしたいし、死ぬくらい本気になれることを見つけて死んでいきたい。

「昨日はなんであんなに笑ったんだろう?」って思うくらい笑い転げる夜が、いくつも欲しい。

「欠点だらけの相手なのに、なぜか愛してしまった」という恋愛をしてみたいし、自分なんてどうでもよくなるくらい誰かを愛せる恋愛がしてみたい。

2人とも眠れなくて、明け方に1つのカップラーメンを分けて食べて「足りなかったね。」って会話をしたい。

今の私は自己欲求まみれだ。


まぁ、そんな人間も可愛いか。

そうやってゆるく生きたいのなら、自分自身に正論をぶちまかすな。

固定概念で自分を見誤るな、と自分に言い聞かせることは大事だ。

目に見えている現実は、私が創ってきたものであることを忘れちゃいけない。

自分がどんな人間だっていい。

私の中にはポジティブだけど根はネガティブで、パリピだけど陰キャで、バカだけどずる賢い自分もいる。

その事実こそが私的この世界の最も面白いコンテンツとして、優勝してる。

最近気付いたのは、他者は自分と同じではないということ。

当たり前なんだけどさ。

自分が当たり前と思っていることを当たり前と思っている人は、思ってるより少ない。

「これだけはこれが正義!」というものなど存在しない。

そもそも正義なんて、人間社会でしか存在しない。

だから冷蔵庫に入ってる誰かのプリンを食べちゃったって、宇宙からしたら本当にどうでもいいことだ。

そんな世界の中で、それでも、人間の綺麗な心は死んでも持ち続けていたいのである。


そんなこんなで、湯船に浸かりながらcanvaで作ってみたロック画面がこちら。

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苦しいとき、辛いときに、「”面白くなってきた!”と叫べ!それだけでいい!」というメッセージを入れてみた!

デザインは「不安になったら今目の前にあることだけに全集中しよう。気付いたら夜明けが近づいてたりするもんだ。」という意味を込めて選んでみた!

でもさ、朝起きたらさ、そう覚悟を決めたことさえもすっかり忘れてたんだよね。

人生ってそんなもん。

なので1周まわって、ロック画面はこれに設定した。

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私の直筆です

こうやって後先考えないで、今絶えず私の中に湧き上がってくる感情をつらつらと書くことで、成仏してくれる負の感情があるので文章書いてます。

ここまで長々と書いておいてなんなのだけど、適当に生きる宣言します!!!!

実写版アリエルから”世界をみる角度”をまた1つ教わった話

家族には、私のやりたいことをずっと反対されてきた。

「看護師として安定に働いて、田舎で暮らして早く結婚するのが1番幸せだぞ。」

「東京はこわいところだ。看護師を辞めてよくわからない会社に入るなんて馬鹿げたことをするな。」

と。

確かに家族の言う幸せも、この世にはあると思う。
その考え方を否定するつもりはない。

でも人はそれぞれ価値観が違う。

家族はそういう人生を送るのが幸せだと思うのはわかるけど、私が幸せかどうかは私にしかわからない。


私は”みたことのない世界を冒険したい”という思いが強かった。

だから反対を押し切って上京したし、看護師も辞めた。

色々なリスクも背負ったし、たくさん悩んで傷付きながらここまで生きてきた。

自分で自分を信じられないときもたくさんあった。

だからこそ私は、「陸の世界に憧れるアリエル」と「声を失うかもしれないリスク、元の居場所に戻れなくなるリスクを背負ってでも、人間になれるチャンスを掴みにいくアリエル」にとても共感するのだ。


“アリエルよく聞いてくれ
人間の世界は最低だよ
海の底の生活こそ
どこよりも楽しいんだから”

隣の海藻は 青く見えるさ
陸に行くのは 大きな間違い

まわりを見てごらん この海の底
なんて素敵な世界だ これ以上なにを望む

素晴しい アンダー・ザ・シー
ダーリン 私の言うこと信じて
あっちじゃ働くだけ 朝から晩まで
こっちじゃずっと遊んでラッキー
アンダー・ザ・シー

「アンダー・ザ・シー」より

実家ではこんなことをずっと言われていたので、その歌詞と家族の言葉がとてもリンクする。


陸にはいないわ あんなわからずやは
私は子どもじゃないのよ

「パート・オブ・ユア・ワールド」より

だからこそこの歌詞とそっくりそのまま同じことを思っていた。

ディズニープリンセスって、”まるで私のことを言ってるの?”と思わせる天才だよね。
同じこと思ってる女の子たくさんいると思う。

でもそれで言うと「アンダー・ザ・シー」は嫌な曲になるはずなのだが、あの明るくて誰もが楽しくなっちゃうような音楽になっているのが、今回大人になって改めて映画を観た私の心に刺さりまくった。

(アリエルのお父さんや)セバスチャンにも正義がある。
アリエルが幸せになるのは心から海の世界だと思っているからこそ、ハッピーに海の世界が幸せだよって歌ってるんだよね。

海の世界の良さもわかるし、”隣の芝生は青く見えるさ”の部分も、その通りだと思う。

私の家族もそういうことが言いたかった部分もあるだろう。


学生の頃は田舎が嫌で嫌で仕方なかったからこそ、東京にすごく憧れていた部分もあったので、田舎の良さなんてみようともしなかった。

だから家族が言っている幸せも事実存在しているのだということをわかってはいたけど、改めて大人になって理解できることもあり、私の心はなんかこう…揺さぶられた。


そう、だからこそ今でも自分の選択してきた道が正解か間違いかなんて、わからない。


ただ確実に言えることは”今、とても幸せだ”ということ。

自分の心に素直に生きて、たくさん挑戦して、たくさん失敗して、それでも明日もっと自分を好きになれる、もっと幸せになれるって思って日々を生きている。

挑戦すること、失敗すること、悩むこと、落ち込むこと…これは当たり前にできることではない。

そして頑張って、苦しんだ結果、達成した喜びを感じることも、支えてくれた人の存在の大切さに気付けることも、当たり前ではない。

全部含めてそれができているのって、私にとってはとても幸せなことなのだ。


そしてその28歳の大人が今までしてきた生き方とリンクさせながら感動で涙できる作品を創れる大人を、私はすごく尊敬する。

伝えたいことをそのまま言葉にしても伝わらないことはたくさんあるから、それを映画というエンタメに昇華させると、面白いことに新しい世界観ができ、その分この世に”世界をみる角度”がまた増える。

「リトル・マーメイド」のファンからしたら、冒頭音楽の前奏が流れてきただけで鳥肌がたったなぁ。

ストーリーがわかっていたって泣けるし、なんなら”次はこのシーンだな”って予想できた時点で涙が出てくる。

エンディングでも「アンダー・ザ・シー」が流れるのだが、個人的には最後にあの楽しい音楽が流れてきたことで、再び涙が出てきたくらい心に響いた。

先程書いたように、「アンダー・ザ・シー」は家族の存在とリンクしているように感じるので、最後に曲が流れてきたときに家族の存在を想起したのだ。

人間は矛盾を抱えている生き物だと思う。
人間は矛盾を抱えて生きれる生き物だ。

光があるから闇を知り、闇があるから光を知れる。
矛盾があるから人はより、自分のことを知れるのではないだろうか。


だからこそその矛盾さえも総じて面白がれる人間になれたら、また新しい世界がみえるかなと思った。

あとアリエルとエリックのデートコースは私も死ぬまでに経験したいです。

よろしくお願いします。

嫌なことがあったとき、私はお寿司を食べたくなる。~未来とかはどうでもいい~

いつかのある日、未来とかどうでもよくて、ただただ今この瞬間の絶望に浸りながら歩いたこの道を、今日はとことこ歩いた。

天気が良かったから。

生きていく理由なんてそんなものでいいだろう。

 

嫌なことがあったとき、お寿司を食べたくなる。

お寿司を食べても報われない感情があることを知って、1つまた大人になったと思った。

 

 

嫌なことがあったとき、見たこともない、聞いたこともない国に行きたくなる。

こんな生き様があってもロックだなー、私も何でもどうでもいいことにして生きるぞ!って思えるような気がするから。

「お前、まじかよw」みたいなこと、人生に何回もあるといい。

 

この前友達と飲んでて、早朝に道路で友達が私の靴を意味もなくどこかに放り投げた。

そしたら靴が垣根のどこかに行ってしまったので、靴下で外を歩いた。

 

26歳の女が明け方に一体何をしてるんだろうと冷静にはなったけど、後先考えず靴を投げた友達を好きだったりする。


そういえば一緒に住んでるトルコ人に「How are you?」と挨拶すると、いつも「Good see you!」と返してくれるの嬉しい。

 

 

いつか「See you again.」と次にちゃんと会う決意をしてお別れを言い合う日がくるのだろうか。

それとも「Bye!」って軽く挨拶して、それが最後の会話になったりするのだろうか。

 

大袈裟化もしれないけど、日常生活で、もう会わない人と「またね~!」って言って死ぬまで会わないことなんてざらにあるのだ。

そういう刹那的な、奇跡的な毎日を過ごしてるくせに、いつも夜飲みに出掛ける社長に「お疲れ様でーす。」とぶっきらぼうに言ってしまってる自分もいる。


最近は嫌なことが合ったらビールを飲みたくなるあの感情が表れなくなったのは、なんでだろうね。

今日は1人で、ビール飲んじゃおう。

自分が田舎に生まれた理由は、意外とロマンチックかもしれない話

「アメリカ文化」というものはないらしい。

地域によって違うし、地域の中でも個人によって違うからだ。

 

日本においてはどうだろう。

やっぱり真面目だけどシャイで、自信もないイメージがあるし実際海外と比べるとしたら日本人の気質ってそういう部分にあるだろう。

あと、人生を楽しんでいるように見える人も比較的少ないように思う。

 

あくまで私の立場での個人的な意見であるし、日本人を否定したいわけではない。

むしろ私は日本人が、普通の日本人よりは好きだと思う。

 

私がメルボルンで過ごしていた時、オーストラリアって移民の国だから、誰がオーストラリア人なのか分からないレベルで色んな人種の人たちが生活していた。

偏見が含まれている部分もあるのかもしれないけど、私が出会った人たちはやはり国ごとに人の性格だったり価値観だったり似ている部分があったのは確かだった。

 

 

友達になった中国人に疑問を抱いて、ふとこんなことを聞いたことがある。

「なんで君は、あんまり笑顔にならないの?中国人の人たちってみんなシリアスな表情してない?」って。

なんで中国人の友達に聞いたかというと、私のバイト先の中国人の人たちも全然私に笑ってくれなかったからだ。

 

これはあくまで私の友達の中国人の人が言っていたことなのだけど、中国の文化って親密な関係にならないとあまり笑顔を見せないらしい。

笑顔を見せないという表現は合っていないような気もするけど。

愛想がない感じ!

 

でも1度仲良くなるとすごく心を開くし、信頼性激つよなんだそう。

実際、最初は恐い表情しか見せてくれなかったその中国人の人たちも、関係性ができてくるに従って笑顔を見せてくれることが増えた。

結構、嬉しかった。

 

 

なんてこともあったし、私はラテン系の友達がたくさんいたのだけど、週末は毎回20人くらい友達を集めて、ビーチでBBQをして飲みながら踊り明かすことがよくあった。

 

ダンスが好きな人たちが集まっているのもあるだろうけど、やっぱり日本人とノリが違うなぁと感じた。

私はダンスが好きだからよく友達に踊ろ!っていうのだけど、なかなか日本人で踊ってくれる人っていなかったりする。

日常に踊る文化がないもんね。

 

 

何が言いたいのかというと、人間って環境に大きく左右されるんだなってこと。

 

例で挙げたのは国という環境だけれど、地域、家族、学校、貧富、気候…全ての環境においてそれが言える。

 

自分が好きな食べ物やファッション、やりたい仕事、好きな人…全部自分で選んでいるようで、実はほとんどが「”今までの自分が育った環境によってつくられた自分”に選ばされている」のではないかなって思う。

 

大学生の頃、新潟県民は背油ラーメンが大好きだけど、山形県民の友達らは「あっさりラーメン以外、ラーメンじゃない!」と言われて衝撃だった。

あっさりラーメンも美味しいけど、背油ラーメンがラーメンじゃないなんて、どう育ったらそんな嗜好になるんだ!!って。

 

日本の食べ物大好きマンだけど、海外の人の意見を聞くと「寿司美味しいよね!」とは言われるけど、自分が思っている以上に評価は低い。

やっぱりみんなそれぞれ、故郷の味が1番だという人ばかりだ。

 

大学のゼミで「人間は脳で食べている」というテーマについて研究したのだけど、まさにそれだと思ってる。

故郷の味、つまり慣れ親しんだ「思い出の味」が無敵なのだ。

 

 

ファッションも田舎にいた時だったら絶対しなかったようなファッションを東京で着ているし、自分が進路を考えるときに選択肢が看護師や公務員くらいしか頭になかった。

図書館にある「職業図鑑」的なものでしか、調べる方法が思いつかなかった。

 

「外の世界を知ろうとしなかった自分がわるいよ。」と言われるのだけど、”外の世界がある”だなんて知らなかったんだもん。

知っていたら「どうやって調べればわかるかな?」と考えられるけど、そもそもその存在を知ることがなければ調べようがないでしょ?

 

小さい頃からお母さんにずっと「看護師はいいよ」と洗脳のように言われて育ったことが、私が看護師になった理由において大きな割合を占めている。

ちなみに医療現場での医療ミスも、「ミスは、ミスした人のせいではなく、環境に問題がある」という考え方で改善策を考える。

経済学でも、そんな考え方あるよね。

 

 

上手くいかないことを、環境のせいにしたいわけではない。

その環境に生まれたからといって、後悔があるわけでもない。

全部を含めて今の自分があるわけだから。

 

今の大好きな人たちと出会えたのも、私が生まれた環境、育った環境、今までしてきた自分自身の選択、全てのおかげだ。

  

小さい頃の家庭環境は私にとって最悪だったけど、あの人生で1番辛かった小学生時代が、今の私の基盤となる価値観をつくっている。

 

自分の居場所があるだけで幸せだと思えるし、「明日を生きたくない」と思わなくていい日常にすごく感謝ができる。

こういうことを、綺麗事だと思う人にならずに済んだ。

  

今好きな人を「好きだ」と思えるのは、今まで生きてきた環境のおかげでもあるとさえ思う。

 

なんならそもそもこの環境で生まれたのって、その人と出逢うために、生まれてくる前の自分が仕組んだ環境なのかもしれないなんて思ったりもする。

「え、小さい頃から○○が好きなの?偶然だね、私も!!」ってなって運命感じてしまうのって、人間のロマンチックな性質ではないだろうか。

追記:セーラームーンは、前世で戦争によって幸せになれなかったセーラームーン(月のお姫 様)とタキシード仮面(地球の王子)があまりにも可哀想だと思い、セーラームーンのお母さんが2人を同じ時代の地球に転生させたのである。2人は偶然道端で会って、お互い初めて会ったのに、何故か知っているような感覚を覚えて惹かれ合っていくストーリーである。

 

このロマンチック、お分かりいただけただろうか。

「結婚は、3回くらいしたいと思ってる。」

彼女は真顔で言った。

 

確かに「結婚は1人の人と永遠に」が1番幸せになれるだなんて勝手に思っていたけど、そうでない場合もあるんだろうな。

 

もちろん1人の人と同じ幸せを育むのって、すごく幸せだと思ってる。

 

ただ思ったのは、自分でも知らないうちに決めつけている常識がまだまだ沢山あるなってことだ。

 

厄介なのが、自分でもそれを今まで生きてきた環境で自然にすり込まれた常識なのだと気付いていないことだ。

 

知らないうちにすり込まれた常識で、自分の幸せを決めてしまっているのが恐い。

 

だから私は色んな人にあって、色んな生き方を知って、自分の幸せを選択していきたい。

 

田舎で生まれたけど、ずっと村から出なかったら、自分の幸せは「大学に行って、看護師になって、それなりに旅行をして、素敵な旦那さんに幸せにしてもらう」ことだったと思う。

大学に行くことも、田舎で暮らすことも、看護師として働くことも、旦那さんに幸せにしてもらうことも、全部幸せの選択肢だと思う。

 

ただ、私の幸せは違う選択だと大人になって知った。

世界をまるで知らなかったから。

 

今はすでに看護師を辞めて、どうなるか分からない未来を生きているのが心地いい。

 

変化のない日常って、結構メンタルにくることも学んだ。

 

かといって、狂ったみたいに仕事が好きではないことも学んだ。

 

私は他の誰でもないから、「この人がこれで幸せだから、私も同じことをすれば幸せになれる!」なんてことはない。

 

その幸せを試行錯誤して探すことを、生きると言うのかもしれないなんて思った。

 

何でもいいけど。